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 草の踏みしめられる音がどんどん近くなり、四人が潜む藪の側へ迫った。
 四人は全員心臓が凍えるような思いで身を隠していた。足音はそのまま通り過ぎていく。
 やがて、厩(うまや)の方から、誰かと誰かの会話が始まった。
 よくは聞こえないが、なごやかな会話であることは知れる。そのまま息をつめて待っていると、その人物は去り、やがて完全に人の気配がなくなった。

 大分経ってから少年が身を起こした。
 それを合図にするかのように、他の三人も姿勢を戻す。
 モズが溜まっていた息を吐き出すように長い吐息を吐いた。
 少年が彼女の顔を見て微笑んだ。それでも警戒は解かず、小声で話しかける。「…よく辛抱したな。今のは、二人組の男だったな。この屋敷を探りに来たようだ」
 モズはうなずいて同意した。彼女は髪にかかった草を払いながら言った。
「ええ。お兄さんが気づかなかったら危なかったわ。――あたし、屋敷に近づいて来た今の男、知ってるわ。声に聞き覚えがある。アビエタの壁のやつよ。屋敷の下調べに来たのね」
 抱えていた足を伸ばして体をほぐしていたコロも言った。
「多分あいつは、この屋敷で働いてる厩番かなんかと仲がいいんだ。お兄さんが本当にここに来たのか、どこの部屋に泊まっているのかとか、調べに来たんだ」
 タリカーンは首を傾げた。引っかかることが一つある。彼女は全員の顔を見渡して問いかけた。
「…どうやら追っ手は今夜決行するみたいだけど、でも、何故明日に延ばさなかったのかな。街を出て少ない人数のところを襲ったほうが効果的なのに」
「いや、外に出た時は警戒しているし、かえって僕を発見しにくいと踏んだんだろう」少年が落ち着いて分析する。「今夜は居所がはっきしりているうえ、郷士の家に泊めてもらっている僕が油断していると考えたんだ。それに、もし明日市長が僕に護衛をつけたらやっかいだ。…そんなことはありえないけど、僕が市長とどういう関係なのか、あっちは知らないからな。――しかもやつらは、この土地に縁がない。市長だろうが誰の家だろうが関係ないというわけだ。流れ者の旅人が勝手に消されたとしても、市長の権威に大して傷はつかないと思っているんだろう」
 その言葉を聞いて、タリカーンはやっと腑に落ちた。いくらなんでも市長の家を襲うなど、大胆極まりない賊だと思っていたのだ。
「じゃあ、やつらは遠慮する気がないんだ」と、タリカーン。
「ああ。さらさらない。だから今夜の内にここを出る必要がある」
 少年が決心を固めているのを見てとって、モズとコロがうなずき合った。二人の子どもは一様に少年に向き直る。
「それならあたしたち、こんなところでグズグズしているわけにはいかないわ」
「俺が他の大人たちに知らせる」と、足を叩いて腰を浮かすコロ。「俺は足が速いんだ。その間にモズがここで見張っていることにするよ。モズがお兄さんを抜け道まで案内して、その途中で僕らと合流してこの街から抜け出すんだ」
「それが一番いい」少年が落ち着き払ってうなずいた。「では、頼む。僕らはこれから出る準備をする」
 コロは立ち上がった。それから矢のように駆け出し、暗い夜道をあっという間に走り去り、見えなくなった。
 しばらく月の光に浮かび上がっている丘を下る細い道を見守ってから、少年は顔を戻した。待っていた少女が目で促しているのに応え、質問した。
「どうやって連絡を取る?僕たちが部屋の灯りを消したら、出立の合図にするか?」
 モズがちょっと目をくりくりさせて考えを巡らした後、タリカーンの背負うトロポンに目を止めた。
「……その楽器を使えば?」
 え?と、突然水を向けられてタリカーンが目を丸くさせる。
 モズは言った。「やかましくない程度に音を鳴らして、あたしに知らせるの。そしたらあたし、あそこの壁際まで移動するから、そこへ来て。三人とも落ち合ったら、脱走開始よ。これでいい?」と、少し離れた建物の角を指し、振り向いて確認する。
 少年とタリカーンは承知した。その場にモズ一人を残し、何くわぬ顔で屋敷へ戻る。
 モズの考えによれば、アビエタの壁という情報屋たちは、少年の居場所という情報しか求められていないので、それ以上の見張りまではせず、後は依頼主に情報を持って帰ってどうするか任せるだけだろう、ということだった。

 元から持ち物は少ないので、少年とタリカーンの出立の準備は素早く整った。
 廊下で待っていた少年は、部屋から出て来たタリカーンと顔を合わせ、どちらからともなくうなずいた。
 タリカーンがいつもどおり肩から提げていた楽器を構え、調節した小さな音色を鳴らした。
 かわいらしい小さな音が空気中に漂い、沈黙が広がる。
 本当にこれでモズに伝わっただろうか、とタリカーンは不安になったが、少年は迷いなく廊下の窓まで行き、安全を確認してそこから飛び降りた。
 草地に地味な着地の音がする。大きな物音を立てなかったことに満足し、少年が後ろを振り仰いだ。
 窓から不安げな顔をのぞかせているタリカーンに向かって手を上げる。早く降りろというのだ。
 タリカーンも身軽な方である。意を決して窓枠に膝をのせ、思い切って下の地面に飛んだ。
「……よし、まずは成功だ。建物の角に行くぞ。背中の楽器に気をつけろよ」
 少年は無事に着地したタリカーンの姿を確かめ、音もなく建物の角へ移動した。タリカーンが背を低くしてその後に続く。下が草地で助かった。足音がしなくてすむ。今のところ目立った物音は立てていない。
 草に隠れて見えにくかったが、石を重ねてできた冷たい壁にもたれてモズが座っていた。草から顔をひょっこり突き出し、手で二人を招く。
 草かげに集合した三人は、とりあえず小さくなって顔をつき合わせた。モズの痩せた顔が青白い月の光に照らされ、その背後の石の壁が冷たい光を反射させている。


 タリカーンは何故か既視感を覚えていた。
 ――…何か引っかかる。
 二人が到着すると同時に、モズは建物の壁に沿って移動した先にある、庭の端を指で示した。小声で、そこから垣根を越えてまっすぐ歩くと、街から出る抜け道までの近道へ行けると言う。
 承知した少年が先頭を切って進み出した。辺りは静かだ。
 虫すら息をひそめているようだ、となんとなくどうでもいいことを考えていたタリカーンは、冷水を浴びせられたかのように驚き、愕然として立ちすくんだ。一瞬で悟る。

 ――この角度でそそり立つ石壁、月夜の暗く冷たい光。荒れた草の生い茂る草原。

 すべての様子がぴったり重なった。
 タリカーンは我を忘れて飛び出し、前をそろそろ歩いていたモズを抜かし、先頭の少年のフードをつかんだ。
「…だめだ!それ以上行くんじゃない……っ!」
 次の瞬間、少年が歩こうとしていた草地に矢が突き立った。さらに続けて二本の矢が刺さる。
 少年がぎょっとしたように目を丸くして矢を見つめた。
 タリカーンは記憶を辿り、必死であの低木を目で探した。いつ襲撃者が襲いかかってくるかと、気が気でなかった。見つけたとたん叫ぶ。
「……あそこ!あの藪に人がいる!」
 言い終わらぬ内に、一人の男が飛び出して来た。まったく昼間見た光景と変わらない。ローブ越しに少年が体を強張らせるのが分かった。
 どうして気づかなかったのだろう、とタリカーンはほぞを噛んだ。
 昼間見た光景には、手前を歩く少年とモズまで映っていなかった。そのため、周囲の様子が昼間見た景色と同じだと気づくのに遅れてしまった。
 飛び出して来た男の手には、月光をはね返してきらめく白い太刀がある。
 タリカーンは音を立てて全身の血が引いていくのを感じた。殺される。


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