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 少年が動いた。
 かがんでいた背をのばすと同時に、瞬時に抜いた剣でその太刀を受けた。金属の鋭い音が響く。ぶつかった力の激しさは飛び散った火花が物語っていた。襲撃者が一瞬よろめく。
 少年はためらいなく一気に踏み込み、一太刀を浴びせた。
 よろめいた男の胸が濡れたのが垣間見えた。男は踏みとどまることもできず、その場にぎこちなく倒れた。
 タリカーンは倒れる男の手がふらふら宙をかく動きをはっきり捉え、生々しさに怖気(おぞけ)がした。
 少年は後ろに飛びのいた。その足元に矢が突き立つ。少年はひるまず矢が飛んできた方向へ駆けた。
 その先にある藪がざわついた。藪に飛び込んだ少年の影が消える。

 その間タリカーンは腕にモズを抱え、震えながら待っていた。恐ろしい静寂が周りを包んでいる。
 ぞっとする物音が聞こえた。それは誰かが倒れたのかもしれない、武器が壊れたのかもしれない、なんとも判断のつかない音だった。不安におののくタリカーンは、強く腕の中の少女を抱き締めた。モズは息も忘れたかのように固まっている。両者とも、ぴくりとでも動けば死ぬのではないかというような、言いようのない強い恐怖を感じていた。

 やがて恐怖の闇が晴れた。月にかぶさっていた薄い雲が晴れ、少し明るくなった草地に、折りよく少年がその姿を見せた。少年の剣はほとんど月の光を照らすこともなく、暗かった。
 しかし少年の表情は暗くなかった。緊張をしているだけで、恐れてはいない。
「とりあえずここは大丈夫だ。残りのやつらは逃げた。――今のうちに、向こうまで走るぞ!」
 少年が鋭い声を発すると、鞭に打たれたかのようにタリカーンとモズは勢いよく立ち上がった。膝が震えていたことなんて忘れたように、死に物狂いで走る。
 狙われている、とこれほどひしひしと感じる実感を伴った恐怖は初めてだった。
 タリカーンはともすればこけそうになる細いモズの体が傾くたびに反射的に手を出し、その体を支えた。追いついた少年が低く指示を飛ばす。「……おぶれ!」
 躊躇なくタリカーンは手を伸ばし、モズを抱えた。
 背中にはトロポンがある。一瞬トロポンを前に回して背中にモズをおぶろうかと考えたが、その手間さえ惜しかった。
 モズは大人しく抱えられた。タリカーンが掴んだ彼女の腕は硬く、強張っていた。
 屋敷の領地を囲っている垣根が目前に見えた。少年はそれを難なくひらりと飛び越えた。
 タリカーンはその前でたたらを踏んで停止し、一瞬混乱した頭で考えた。
 …モズを抱えて乗り越えないと……いや、無理だ。何を考えているんだ。一人一人垣根を越えるんだ。
 先にモズをゆかせ、自分も垣根に手をついて足を上げ、焦りながらもなんとかまたぎ越した。いっとき立ち止まってそれを見守っていた少年は、すぐにまた走り出した。


 ……気がついたら、街の中を走っている。少年がモズを片腕に抱え、道案内させていた。
 その細腕にそんな力があったのか、と思うほど彼は微動だにせずモズの体をしっかりと抱えていた。
 本当は剣を使いにくくなるから避けたい格好だろうが、地理に不慣れな少年は、モズがいないと近道が分からない。モズは少し冷静になったらしく、問われるまま少年を導いていた。
 どれだけ走ったことだろう。
 月を背にして走っていた三人は、狭苦しい裏路地まで来ていた。
 あちこちに放置されたごみが足をとり、かなり危険だった。しばらくその路地を右に曲がり、左に曲がりしていた二人は、モズの声に立ち止まった。
「――そこの細い路地に入って!そこをまっすぐ走ったら、もう抜け道よ!」
 勢い余って行き過ぎていた少年が慌てて引き返し、言われたとおり細い路地に入った。遅れてタリカーンが飛び込む。
「…なんだここは?」タリカーンは思わず小さくもらした。
 路地一面に汚物が捨ててある。どうやら両脇の壁の窓から住人が捨てたものらしく、ひどい悪臭を放っていた。足が得体の知れない柔らかいものや弾力のあるものを踏みつけるたび、タリカーンはうへえ、とうなった。あまりにひどい臭いに目がしみた。

 ようやく悪夢のような路地を抜けると、数人の人間が立っている姿が目に飛び込んできた。
 タリカーンは叫んだ。
「……ウィキン!」
 ウィキンはうなずいた。少年に抱かれているモズを認めると、彼はほっとした目をした。
「…よく来た。思っていたより早かったな。抜け道はここだ。ここから街の外へ出られる」
 ウィキンは側の壁と壁の隙間を指して言った。
 少年が抱えていたモズを下ろし、その頭を撫でて小さくありがとうと呟いて別れを告げた。
 少年はウィキンを振り返った。「分かった。色々世話になってしまった、礼を言う」
 ウィキンは首を振った。
「…礼を言う必要はない。タリカーンの知り合いだ、これぐらいはなんともない。…それに、俺の読みが甘かった。モズを派遣したのは、危険がないだろうと踏んでのことだった。君はモズを無事にこちらに送り届けてくれたようだ。感謝する。…本当は、これは俺たちの領分を越えたことだが、護衛代わりに、仲間から二人つける。――カナトル、エッサ」
 それに応えて待機していた二人の人間が進み出た。
 その顔に見覚えのあったタリカーンはあっと叫びそうになった。

 ……カナトル!エッサ!二人とも、数年前この街で遊んだことのある旧友だった。懐かしい面影がある。
 少年がためらって二人を見つめた。初対面の人間といきなり行動を共にすることに躊躇しているようだ。
 タリカーンは少年の腕を取った。「大丈夫。この二人は信用できる。私が保証する」
「なんなら俺一人だけ行こう。二人を守るくらい、俺一人で十分だ」
 自信たっぷりにそう言ったのは、堂々とした体格のカナトルだった。すぐさまそれに反駁するようにエッサが少年に言った。
「いや、俺が君を守ろう。頭の悪いこいつより百倍適任だ」
「なにを言いやがる、ひょろ長い腕しやがって何が『俺が守る』だ。俺に任せろ」
「うるさい、お前は帰って寝てろ」
 昔のように言い争う二人にほほえましさを感じつつも、苛立ったタリカーンが声を上げた。
「今はそんなこと言ってる場合じゃないんだ。協力してくれる気なら大人しくしてくれ」
「まったくだ」呆れ顔でウィキンが同意する。彼は少年に向き直った。「君は初めて会ったモズを信頼したのだろう?それなら、モズの親代わりの俺たちも信頼してくれていいはずだ。街を出た後がもっとも危険なんだ」
「分かっている」と言いつつ、迷った顔の少年は言葉を濁した。しかし彼がためらったのは短い時間で、すぐに真剣な目をウィキンたちに向けた。「……では、頼んだ」
「任せろ!」威勢のいいカナトルが叫んだ。


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