<< prev top ・ next >>

 
 一人の男が彼女の椅子に近づいてきた。
「――はい、なんざんしょ?」
 どうやら自分に用がある雰囲気だ。タリカーンはすぐに弦を押さえて演奏を止めた。
 振り返る客もあったが、ほとんどの客はもう演奏を聞いていないので、曲が止まったことにさえ気がつかなかった。どうせつなぎの曲だ。タリカーンも無理に続けようとは思わなかった。
 男はフードを目深に被っている。旅人にはよくあることなので、それはおかしくない。おかしなことといえば、旅をしているにしては小柄なようだし、まだ若いらしいということだ。
 顎や鼻しか見えなくとも、なんとなく若そうだ、というのは雰囲気でわかった。そのためタリカーンは、テーブルの隅で静かに酒を傾けていたこの男に、無意識に何度か目をやっていた。
 男はフードを下ろした。そして、その色あせたローブを尻にしくようにして、傍にあった椅子に腰かけた。
「やっぱり若いお人だね。曲のご注文かな?」
 問いながらタリカーンは少しだけ青年に向き直って座りなおした。喉が渇いていたことに気づき、ついでに水を飲む。
 男はとがった顎をしており、線が細かった。どことなく、あまり旅慣れしていない、と思わせる空気があった。平民にしては、肌もやや白い。もしかしたら、いいとこの商人のおぼっちゃんなどではなかろうか、と思ったものの、タリカーンは首をかしげた。その割には実戦のためのシンプルな剣を帯びている。
 しかし、線が細いとはいったものの、美青年ではなかった。さわやかな雰囲気は微塵もなく、ちょっと鼻につく自信がありそうな身のこなし方が目を引く。
 沈黙していた青年は、たった今タリカーンが演奏していた曲について一言感想を述べた後、いきなりこう言った。
「あんた、さっき歌詞を間違えたね」
 タリカーンは黙り込んだ。気づいていたやつがいたのか。当然だ。
「…すまない。いつもはあそこで間違えるなんて絶対にしないんだけど…」タリカーンが言いかけると、
「言い訳なんていいよ。仮にも金を貰って演奏している詩人が、そんな馬鹿みたいなミスしちゃだめだろ。一体あんたはここへ何しに来てるんだ?まさか、趣味で楽器を鳴らしてるってわけでもないんだろう」
 一体何なんだ、この若者は。えらくプライドが高そうな物言いも気になるが、上から見下したような指摘が気にさわる。
「…はあ、あいすみません。それじゃ、あなた様から頂戴したお代は返したく思います。いくらくださいました?」
 普通は客がその場を立ち去る時や、詩人が素晴らしい演奏をこなした時などに、客の気持ちの分だけ金を払う。 この晩は何度か演奏中にお金を払ってくれた客はいたが、その中にこの青年がいたかどうかは覚えていなかった。当然いくら貰ったかなど覚えていない。
「いや、僕はまだあんたに払っていないよ。最後まで聞かなきゃ、それが金を払うに値する演奏かどうかなんて分からないだろう」
「…はあ」
(払ってないのかよ)
 一体何しに来たんだ。批評をしに来たというのだろうか。そういうのは王族貴族お抱えの偉い演奏家たち相手にやってほしい。こっちはしがない旅する吟遊詩人なのに。いや、もちろん自分の演奏には誇りをもっているが。
「失礼ですがね、あなた…えぇと、なんとお呼びしたらいいですかね?」
「僕には名前などない。そう思いたまえ」
 タリカーンはこのキザな台詞に内心驚いて目を剥いたが、
「じゃ、よろしいですね。名無しのごんべさん。私のようなしがない吟遊詩人にも、音楽に対する情熱というものは―…」
「ちょっと待て」
「はい」
「なんだ名無しのごんべって…今時そんな呼び方……もういい、僕のことはリネールと呼べ」
「女性的な名前ですね」
「もういい、クェマリルだ。なんでもいい、話を続けろ」
「クェマリルさん、私のような者にも、音楽に対する情熱というものはございます。ノっている時には剣を突きつけられたって演奏を止められないし、あまりに歌に熱中し過ぎて、時と場所を忘れるということもあります」
「うん」
 意外にも青年が大人しく相づちをうっているのに驚きつつ、タリカーンは続けた。
「――ですから、あまりに歌の中に心を入れ込み過ぎていると、歌詞を間違えたり、噛んだりしたとしても、後戻りして冷静にやりなおすなんてことはできないのでして。もう、早く早くと、そればかり急いて、歌を完成させたいものですから、物語そのものを損なうような間違いを犯さない限り、たとえ歌詞を間違ったとしても私は歌い続けるのです。さっきは表現を誤りましたが、その意味は間違っていないので、そのまま続けました。あまりにひどい歌い間違いをした時は、すぐにその場で演奏を止めて、みなさんに謝ります。これで少し私の気持ちが伝わったでしょうか?」
「歌に入れ込み過ぎてて、戻れないと」
「まあ、そうです」
「それはうぬぼれってんだ」
 タリカーンはがっかりして肩を落とした。大人しく話を聞いてくれていたので、異論がないのかと思っていたのだ。
「あの……」
「自分に酔っている下手くそな詩人ほど、理屈をこねて自分を守ろうとするものだ。いいか、歌い間違えた時点で、あんたは詩人失格だ。自覚を持て。あんたには向上心というものがないのか?―いくらこういうパブまがいの宿屋で歌っていたって、音楽に対する情熱があるというのなら、もっと……」
 タリカーンは、激昂して彼にトロポンを突きつけた。
「――じゃあ、お前が歌うがいい!」
「え?」
 タリカーンは水を飲み干し、空になったコップでもってやかましく机を叩いた。よく響く音が宿中に鳴る。
「…注目!!注目!!」
「おい、ちょっと待て……」
 青年が腰を浮かした。タリカーンは無視して、とおりのよい声を張り上げる。
「ここにいらっしゃる音楽の達人(と思われます)お方が、これより演奏を始めます!不都合なければお耳をお貸しねがいたく!さあ、寄ってらっしゃい、聞いてらっしゃい!先生のご演奏だー!」
 青年は呆れたようにタリカーンを見ている。
「いいぞー!やれー!」
「よく分からんがやれー。けんかならもっと歓迎だぞ!あっはっは」
 事情をよく飲み込めていない男たちがはやし立てる。
 青年はしばらく眉をひそめてそれらを眺めていたが、突然決心したように表情を引き締め、トロポンをタリカーンにつき返した。
「お?なんだ、先生。中止ですか?」タリカーンは絡むようにたずねた。
 青年は口を斜めにして、彼女を冷たく見返した。
「それは僕の得物ではない。……そうだな、笛を持ってこい」
「笛?笛が得意なのかい?またしゃれた趣味をお持ちだね」
 青年は軽蔑したようにタリカーンを一瞥した。「笛がないのなら、話にならない」
 威勢だけだったっていうの、とまだ絡み足りないタリカーンは文句をたれたが、宿の主人にお願いして笛を借りた。
「これは、農家の五男坊だったわしが、まだ家で羊飼いをやっていた時にだなあ、暇さえあれば吹いていたもんだよ。いやあ、懐かしいなあ……」などと感慨にふける宿の主人にありがとうも言わずに笛を受け取ると、青年はタリカーンを見やってから、笛に口をあてた。
「聞け」
 酒盛りの席に、細く高い笛の音が鳴り渡った。
 時ならぬ涼やかな音色に、酒に顔を真っ赤にした男たちはおや、と動きを止めた。
 騒がしかった宿が少しおさまり、男たちはしばらく青年を見つめた。笛の音は低く、また高く、流れてはまた空中に留まり、そして動きだす。
「これは……」
「うーむ。なんというか…」
 男たちはうなった。
「…えらく大人しい曲だな。おい、坊主。別の曲にしろ。今何時だと思ってんだ!子どもを寝んねさせるんじゃないんだぜ」
 とうとう男の一人が怒鳴った。
 青年は目だけ動かして彼らを睨んだ。
「先生、お客のうけが悪い曲は早々に終わるがいいですよ」
 横からタリカーンが面白がって丁寧に忠告する。
「うるさい!…どうしてこの曲のよさがわからないんだ!贅沢者め!」
 とうとう我慢できなくなった青年が笛から口を離して叫んだ。
「どうしても何も、お酒の席でそんな上品な曲をやる方がどうかしてるね」タリカーンは冷ややかに青年に言った。
 宿はもう一度喧騒を取り戻した。
「そうだ!そのとおりだ!…よしっ、ここはいっちょ俺様の美声で!」
「やーめーろ。お前、飲み過ぎだ。机にその汚ねえ足をのせるんじゃねえよ」
「いや、しかしおかげでなんだか頭がすっきりした気がするぜ。俺はもう帰って寝らあ」
「おお、そうさな。これ以上飲んでたら、また母ちゃんに家から締め出されちまう」
「はっはっは!お前のかみさん、気が短いからなあ!」
「…ったく、誰が金を稼いでると思ってんだ。なあ!」
「……。やめてくれ、揺らすな……吐きそうなんだ…」
 ちょうどいい頃合だったのか、今まで酒をかっ食らっていた男たちは次々と帰っていった。
 タリカーンはそれを呆然として見送った。
「あともう少し稼ぐつもりだったのに…」
「いいことだ。こんな所に長居するなんて、不衛生だ。精神的にもな」
 淡々と横で青年が喋る。頭の痛くなってきたタリカーンは額を押さえた。
「…私もそろそろ部屋に戻った方がいいみたいだ。えー…クェマリルさん?」
「それは仮名だ。わざわざ覚える必要はないよ」
「うるさいな、分かってるよ。それじゃ、よい眠りを。――ああ、疲れた」
 タリカーンは相棒のトロポンを抱え、宿の主人に挨拶してから自分の部屋に戻ろうとした。しかし階段を上りかけた足が止まる。
「……何ついて来てるの?」
「僕もこの宿の二階の部屋に宿泊している。さっさと歩いてくれ。後ろがつまってるんだ」
 タリカーンは肩をすくめて階段を上り、自分の部屋の扉を開けようとした。この宿に泊まってるんだって?状況からしてそれは十分ありうる可能性だったのに、気づかないなんて…しかも
「うわー、隣の部屋だし」
「なんだよ」
 青年は嫌そうな顔をして一瞬振り返り、自分の部屋に消えた。タリカーンも同じくらい悲壮な顔をしてみせてやってから、扉を開けた。
 中の光景にタリカーンは目を見開いた。


<< prev top next >>