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「…えっ?ナタリーちゃん!?ちょっと、何してるんだい」
 タリカーンは慌ててベッドに駆け寄った。
 布団の上では、すやすや寝入っているナタリーの姿があった。
 ゆすって起こすと、ナタリーは寝ぼけた顔でタリカーンを見た。
「…やっと来たのね、詩人さん。あたし寝ちゃったわ」
 どうやら、タリカーンに子守唄代わりに何か歌って欲しかったらしい。タリカーンは呆れて彼女を追い出そうとした。疲れているし、もう遅い。タリカーンはさっさと眠りにつきたかった。いつも歌い終わった後はそうしている。
「ひどい!あたし、待ってたのに!」
 ナタリーは手足をじたばたさせながら抗議した。「…ひどいわ!だって、詩人さん明日には出てっちゃうんでしょ!そしたらもう詩人さんの歌聞けないじゃない!最後に聞かせてくれたっていいわ!」
 タリカーンは虚をつかれて一瞬動きを止めた。宿屋の主人に口止めしておいたのに、教えてしまったらしい。
「ああ、ナタリーちゃん知ってるんだね。そうだよ。だから明日朝早いから、もう寝なくちゃいけないんだ。ごめんね。でも、この宿にはきっとまた来るから」
 タリカーンはそう言ってナタリーを抱きしめてなだめようとした。しかし、頭にきているナタリーにはそんなもの通じない。
「うそつき!黙って出て行こうとした人のことは信じないもん。ナタリーのために歌うのがそんなに嫌なの!?」
 この言葉を聞くと、タリカーンも歌ってあげようかと思えてきた。だんだんかわいそうになってきたし、「自分のために歌ってくれ」と言われて嬉しくない吟遊詩人はいない。歌を贈るのが吟遊詩人の仕事なのだ。
「……じゃあ、」
 一曲あなたのために心をこめて歌う、と言いかけたところで、
「うるさいぞ!今何時だと思ってるんだ!非常識人め」
 扉が開け放たれて隣の青年が怒鳴りこんで来た。
 二人は一斉に青年を見た。
 しかし、青年は室内にいたナタリーの顔を見て止まった。
「……子ども?どうりでうるさいはずだ」
 あちこちの宿に泊まるようになってからずいぶん経つが、隣人に苦情を言われたのは初めてだった。タリカーンは閉口して青年を見やった。
 すると、何を思ったかナタリーが青年にこう訴え出した。
「ねえ、お兄ちゃん聞いてよ!詩人さん明日にはお別れなのに、黙って出て行こうとするんだよ!最後にナタリーのために歌を歌ってってお願いしても、聞いてくれないの!ひどいでしょ。お兄ちゃんからも何か言ってやってよ!」
 青年は不思議そうな顔をしてタリカーンに目を向けた。
「歌ってやればいいじゃないか」
 タリカーンは腹が立った。言われなくても歌おうとしていたところなのに、この青年に指図されるとは屈辱だった。
「もちろん歌いますとも!さあ、その代わりうるさいなんて苦情はもう言わないで。――ナタリーちゃん、じゃあ私は……」
 ところが青年は扉を閉めるどころか、ずかずか部屋の中に入って来た。タリカーンはベッドの前にひざまづいていたが、驚いて青年の前に立とうとした。
「ちょ、ちょっと…!ここは私の部屋…」
「小さなお嬢さん」
 何故か青年は礼儀正しくナタリーにお礼した。「せっかくの機会だから、僕にも歌を捧げさせてください。あなたのために心を込めて演奏します」
 しかもそれは自分が言おうとした台詞だ、と横にいたタリカーンは唖然として口を開いた。
 青年は馴れた手つきで美しい白い笛を取り出すと、優雅なしぐさで口にあてた。さっき階下で演奏したときの、やけくそな雰囲気は微塵もない。
 笛の音が滑るように流れ出す。
 なんて透明な音なんだろう、とタリカーンは思った。青年の笛は宴会には似つかわしくないが、孤独を癒してくれるような、ささやかな澄んだ音色を持っている。
 ナタリーはベッドの上に座ったまま、大人しく笛を聴いている。
 タリカーンはちょっとだけ寂しくなった。
 いつも酒を飲むおやじ相手に、英雄の叙事詩だの、馬鹿馬鹿しい恋愛話だの、場を盛り下げないにぎやかな曲しか演奏しなくなって久しい。たまにはこういうしんみりした静かな曲もいいものだ、と思って、タリカーンはしみじみと聞き入った。
 青年の笛が最後に一声別れを告げるように鳴り、そして終わった。
 ナタリーは青年に拍手を送った。
「ありがとう。素敵な曲ね。とっても上手だわ」
「ありがとう」
 青年はちらりと目だけ上げた。「…歌があればもっといいんだが…」
 タリカーンは笑い返した。
「もちろん私もナタリーちゃんに歌を捧げるさ。ナタリーちゃん、聞いてくれる?」
「うん」
 しかしそこで再び部屋の扉が開け放たれた。
「――…うるさい!!寝られないだろ!やっと下が静かになったと思ったら、こんな時間に笛の練習か!?一体どういう神経してんだ!」
 知らない男が戸口で大声で騒ぎ立て始めた。普通なら彼の訴えはもっともである。
 タリカーンはさっと男の前に進み出て、彼を廊下に押しやりながら言った。
「今日はこの子の誕生日なんだ!黙っててくれ!苦情なら宿の主人に言ったらいい」
 タリカーンは男を押し返すや、扉に鍵をかけた。
 宿の主人は娘の味方のはずだ。気の毒な男性には引っ込んでもらって、気を取り直して、タリカーンはトロポンを構え、ナタリーの横に腰かけた。
 ナタリーはくすくす笑っている。「パパがちょっとかわいそうだわ」
「大丈夫だよ、今日は君の誕生日なんだから」
 タリカーンの言葉にナタリーはもっと大きな声で笑い出した。
「…―では、ナタリーのために私の大好きな歌を歌います」
 タリカーンはナタリーに微笑んだ。ナタリーがうなずく。
 伴奏が始まる。何かが起こりそうな、助走のような出だしの音が何度か繰り返し流れ、聞き手の期待を膨らますように盛り上がってから、歌が始まった。


 
       "赤松の木の下で 私はあなたを待っている
        花びらが私をつつみ あなたに香りを届ける風が吹く"



 タリカーンが歌うのは、今では流行らなくなった、だがとてもシンプルな愛の歌だ。古臭い歌なので歌う者は減ったが、タリカーンはこの歌が好きだった。小さい頃母がよく歌っていたからだ。
 青年が笛を構え、演奏に加わる。
 この晩、宿の小部屋がささやかな演奏場になって少女を楽しませた。


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