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 ユナンは宿舎の裏から、さっきタリカーンたちが通ってきた建物へ移動した。その建物は神殿、と呼んでいるらしい。
 ユナンは神殿の横へ回り、何故かそこの山の斜面を登り出した。真剣な表情で手足の置けるとっかかりを探している。
「――…何してるの?」
 タリカーンは思わずすっとんきょうな声を出した。
「神殿の屋根に上がるんだ。あんたもさっさと登れよ」
 振り向いたユナンは、何をぐずぐずしている、とでも言いたげに顔をしかめた。
「…私は、あなたを殺そうとしたのは誰かって質問したんだよ」
 物騒な内容に、我知らずひそひそ声になってタリカーンが言う。
「だから、その話をするために登るんだよ」
「…だから、なんで?人に聞かれたくないからって、屋根の上でする必要はないでしょう」
「いいから」
 ユナンはじれったげに顎をしゃくるだけだ。
 せっつかれ、タリカーンも不承不承その斜面を登り始めた。
 途中で出っぱった所があり、そこからはどうやら歩いて登れそうだが、それまでの高さはかなりのものだった。
 なんで一日に二度もこんな山登りを体験しなきゃいけないの、とタリカーンは口の中で小さくこぼしたのだった。

 出っぱりに先に上がったユナンがタリカーンを引き上げ、そこからは土の壁に背をぴったりとつけてそろそろと登った。
 タリカーンは背負っていたトロポンを体の前に回して横歩きせねばならなかった。こんなことならトロポンを部屋に置いておけばよかった、と思うが、実際にはそんなこと恐ろしくてできなかった。タリカーンはもう何年も移動する時はトロポンを我が身から離さなかった。
 ユナンは身軽にどんどん先へ進んでいく。うらやましく思うと同時に、自分勝手な彼に腹が立った。

 やっと屋根と同じ高さまで上れた二人は、屋根に飛び移った。それから屋根の上を慎重に歩く。いくら平らな形とはいえ、端の方は下に向かって斜めに切り下がっており、かなり危険だ。
 ユナンは慣れたような足取りで前をすたすた歩いている。
(――…これのどこが優等生の姿なんだ)
 タリカーンは心の中で毒づいた。赤の長の目は曇ってらっしゃるようだ。
 ユナンは立ち止まって振り向いた。
 それは険しい山の斜面がそびえているのとは反対側の方角で、広々とした景色が広がっているのが見える。ユナンはその景色を背景に、嬉しそうな笑顔を見せてタリカーンを手招いた。
 タリカーンは仕方なく彼の招きに応じて、おっかなびっくり歩を進めた。
 ユナンが立っている端近くの恐ろしい場所へ来ると、彼がタリカーンの手を取って導いた。

「――ほら、見ろよタリカーン。きれいだろ?」

 ユナンが手を広げて示して見せた光景は、タリカーンの息と心臓を止めるのに十分だった。
 はるか彼方まで続く空と大地があった。森は深い緑、途切れがちにその間に入る荒野と、遥かな空の下の稜線。息づくような大地の起伏がゆるくうねっている。手前の山に至っては、一つ一つの木の葉まで見分けられそうな、生き生きとした木の頭が連なっている。雲がちぎれながらゆっくり飛んでゆき、空を素朴に飾っていた。春だからか、まばらに生えた遠くの木の梢さえとびきり輝いて見えた。
 どこまでも続く空、それを見て風を感じることが、こんなにも気持ちのいいことだとは。

 タリカーンは爽快な気分で腕を広げ、景色に見入った。こんなに広い風景がどこまでも続いているなんて、信じられない。
「な、きれいだろう」
 横では嬉しそうにユナンが目を細めている。
 どうやら、彼の目的は誰かにこれを見せることだったらしい。
 タリカーンも先ほどの怒りを忘れてうなずいた。
 ユナンは自分が満足するとくるりと背を向け、屋根の中央で腰を下ろした。
 もう観賞は終わったらしい。
 タリカーンは慌てて彼を追いかけた。なんて気分の切り替えの早いやつなんだ。時々ついていけない。
 タリカーンが目の前に座ったことに満足すると、ユナンは口を開いた。

「…うん、ここは人も来なくて丁度いい。タリカーンにはもう一つ確かめてもらいたいこともあるからな」
「確かめること?」
 タリカーンの言葉に、うむ、とにやりと笑うユナン。含むところのあるその笑顔は、ユナンをふてぶてしく見せた。
 この野郎、どんどん本性を現してきたな、とタリカーンは感じた。旅をしている時はひたすら不機嫌だったが、ここへ来てからのユナンは生き生きとして見える。これが本来の彼のようだ。
 というより、とタリカーンは思考を変えた。旅をしている間のユナンは、緊張の連続で隙を見せられなかったのかもしれない。旅をしている時は用心深くなるし、ましてや彼はこの奥深い秘境で世間を知らずに育ったようだ。それで一人旅をさせられたのだから、緊張するのが当たり前だ。思えば、カナトルやエッサといったタリカーンの旧友に会った時も、見知らぬ大人たちに遠慮していただけなのだろう。ユナンの年頃でいえばそれが普通だ。
「……な、あんた人の話聞いてる?」
 気がつけばユナンが呆れた顔をして目の前にいた。タリカーンはかぶりをふった。
「…ううん、考え事してた」
「あんたって、悪びれるってことがないよな」と、冷めた目をするユナン。また不機嫌な顔に戻った。
「悪びれないのはどっちだ。あなたはもっと人を敬う態度を覚えなさい!」
 タリカーンは軽く叱咤した。
「それが尊敬できる大人ならね」
 ユナンはいつもどおりに受け流し、話を戻した。「――あの時、試練を受けるためにロークタルクにいた揺るぎの玉の受験者の中で、僕にああいうことを仕掛けてもおかしくないぐらい僕を嫌っている奴が一人いた」
「え?それは?」
 タリカーンはたちまちここへ来た理由を思い出した。膝を乗り出す。
「マラボイだ。マラボイの兄貴分のウォッケスは、僕を目の敵にしている」ユナンは顔を歪めた。嫌な過去を思い出すかのようだった。そして吐き捨てる。「どちらも姑息なやつだ」
 タリカーンは不安に思ってたずねた。
「…あなたは死んだかもしれないのに、そんなことを出来るような子なの?本当にその子がわざとやったんだろうか?」ユナンがその少年たちを嫌っているがために、誤解して思い込んでいる可能性もある。
 ユナンは劇的に表情を変えた。侮辱されたかのように目が怒りで燃え上がった。
「…あんた、なんであいつらを弁護するようなことを言うんだ?あいつらを知りもしないくせに。僕が決めつけていると思うのか?僕の間違いだって言いたいのか?」
「そこは反応するところではないよ。私は可能性を聞いてるの。槍が偶然倒れたのか、人の故意で倒れたのか」
 タリカーンの冷静な言葉は、かえってユナンを怒らせたようだった。「あんたは僕を信用しないんだな」
「私が信用する人間は、私の母だけだ」タリカーンは冷たく答えた。
「私はあなたを全面的に信じられるほどあなたを知らない。人に信じて欲しいのなら、証明して見せなさい。それができない場合は、根拠のある話で説得すればいい。他人の信頼を勝ち得るのは、なまなかなことじゃないんだよ」
 ユナンはタリカーンの冷静な態度に、しだいに自分も冷静さを取り戻した。彼は元々口先だけで大騒ぎする人間が嫌いだったし、自分がそうなることは避けたいと思っていた。
「……根拠のある話って?」
 ようやくユナンはタリカーンのやり方で話をする気になったようだった。感情的な話をぶつけても響かないことを感じたのだろう。
 タリカーンはまず自分の意見を述べることにした。
「私もあの場にいたし、槍の倒れるところは誰よりもよく見ていたよ。でも、自然に倒れただけのように見えた。あなた…例えばの話だけど、このことでやつらを告発しなければならなくなったら、証拠を出せるの?」
 ユナンは首を振った。「ない」
「では、可能性の話になるね。まず、揺るぎの玉で本当に槍をわざと倒せられるか。ユナンの話からすると、それは十分可能だ。だから故意の可能性はゼロじゃない。それをどうやって膨らましてみせる?あなたには、拠り所となるものがある?」
 タリカーンの揺さぶるような問いに、ユナンはしばらく考え込んだ。
「……人の故意だという可能性が大きいと私に思わせられれば、私を説得できるよ。私もその少年が怪しいと思うだろうね」
 タリカーンは挑発するようにユナンを促した。こういう言い方のほうが、気の強いユナンを刺激できると思ったのだ。
 タリカーンは、できれば彼自身によってこのことを長たちに直訴させたいと考えていた。

 やがてユナンは顔を上げた。
「――これは根拠としては弱いけど…もし、あの場で揺るぎの玉を使った人間がいたとしたら、あの時あの塔の一階にはいなかった。あんたが入って来て、みんな追っかけなきゃいけなかったんだから、下にいた人間は全員違う」
「うん?」と、先を促すタリカーン。
「だから、あの時下にいなかった人間で、それが僕のことを嫌っている人間だったら……そいつは槍を倒したかもしれない……」だんだん言葉が弱くなっていく。
 タリカーンはため息をついた。「確かに根拠としては駄目だね。でも、聞く価値はある」
「それを今すぐ確かめたいんだ。来てくれ」

 ユナンは立ち上がり、宿舎の方角を見つめた。下からそうしてまなざしを厳しくしている姿を仰ぐと、なかなか格好よく見えるな、などとタリカーンはどうでもよいことを考えて立ち上がった。
 ユナンは宿舎の方へ向かって歩き出し、タリカーンもついて行った。
 端に立つと、宿舎とその庭を見下ろすことができる。中庭や宿舎の窓に、子どもたちの姿がちらほら見かけられる。
「いやー…絶景かな」
 タリカーンは唐突にのん気な伸びをしてみせた。急にここから落ちたらどうなるか思い出したのだ。
 ユナンは目をすがめて宿舎を見つめていた。
「もうすぐ庭に出てくると思うが……マラボイはこの時間大抵……あ、来た」
 ユナンが呟き、それを指で指した。タリカーンもそちらに注目する。
 数人の少年が笑い、ふざけ合いながら庭に出てきた。一人が手に持っていた球状の何かをほうり、それを足で蹴ったり投げたりして遊び始めた。
「この時間は庭に出てくるんだ。ほとんどの女どもが部屋に入って、入れ替わりにあいつらが庭を使うんだよ。――あの、短い茶色の髪で、気の強そうな奴。今ボールを受け止めた奴だ。あれがマラボイだ」
 タリカーンはマラボイという少年を見つめた。
「……へー。彼は今回の試練を受けに行ったんだね?確かに彼の顔は、あの塔に飛び込んだ時には見なかったけど…」
「じゃあ、やはりマラボイがやったんだ」
 ユナンが確信したようにそう言うので、タリカーンは彼の腕を掴んだ。
「それだけで決めつけるわけにはいかないでしょう。それを言ったらネウリカだってあの場にはいなかった」
 ユナンは面食らったように瞳を小さくした。「…ネウリカは、雑用でも任されていたんだろう」
 タリカーンはユナンの腕を放した。
「あきれた。あなたの話には説得力が全然ない。誰がやったかなんて、まだ分からないじゃない。――私だってね、槍がもうすぐで刺さりそうになるユナンの危ないところを二度も見て、嫌な気持ちになったよ。でも、いっときの感情だけで行動することはできないでしょう。もしあの子が犯人だっていうなら、私だって彼を殴ってやる!死ぬほどね」
 タリカーンは初めて激しい言葉で自分の気持ちを表現した。が、ユナンが気になったのはそこではなかった。
「二度見た?それ、どういう意味」
 タリカーンはしまったと思って口をしっかり閉じた。これ以上この馬鹿な口が勝手に動きませんように。
 ユナンの表情が面白いように変化していった。あざやかな晴れ晴れしいものになる。
「…分かった。あんた、僕が危ない目にあうところを前もって見ていたんだ。だからあんな正確に来れたんだな。そうだろう?」
 ユナンがたたみかけるようにたずねた。声が少し興奮している。
「馬鹿おっしゃい」タリカーンはぴしゃりとはねつけてやった。
「そんな夢みたいな才能があったら、今頃億万長者になって金貨ざっくざくいわしてるわ。何が悲しくって吟遊詩人なんかしなければならないの。そんなことができたら、私はもっと有名な人間になってやるね。それこそ、偉大なる巫女さまとか呼ばれてさ」
 ユナンはしかし動じなかった。「でも、あんたそういうの望まなさそうだぜ」
 タリカーンは腹が立って彼にくってかかった。「今のどういうこと?あなたが私の何を分かってるって?ユナン!私は付き合いの浅い人間に知ったような口をきかれることほど、腹の立つことはないよ!なにさ、あなたは私の何を知ってるってんだ……!」
 再び気分を害したタリカーンは、さっさと屋根を下りようとした。山の斜面に向かって足音も荒く進む。
「ヒステリーだな」背後でぼそっと呆れた声がした。
 タリカーンは振り向きもせず、違う苦情を言ってやった。「――それからね!もしまたここに…それも、女の子を連れて来るようなことがあったら、絶対前もって相手に念を押してから山登りをさせるんだ。『苦労して登ってもらうけど、怖い目にあうかもしれないけど、それでもいいですか?』って。景色を見せたいなら、初めっからそう言えばいいのに!私はあなたほど身軽じゃないんだ。死ぬような思いをしたよ」
 あまりに返事がないので、とうとうタリカーンは振り返った。「…ユナン!聞いてるの?」
 ほとんど日を背にしているがために少し暗い影が立っていた。睨むようにした目つきは悪いが、ふてくされているようにも見える。
「…あんた、あれ気に入らなかったの?」
 ユナンがぼそっとすねたように言ったあれとは、景色のことだろう。せっかく自分の気に入っているものを見せて喜ばそうと思ったのに、失敗したのだ、と気落ちしたらしい。
 タリカーンは急に傷ついて立っている彼を慰めたい気持ちになった。
「すごく気に入ったよ。……でも、最初に言っておいて欲しかったの」タリカーンは一言つけ加えずにはいられなかった。
「だって、初めから言ったら驚かないだろ?」
 ユナンは当然のように言い返す。「驚いて欲しかったんだ。あんた、驚いてたじゃないか」
 タリカーンは呆れて立っていた。  …まったく、この少年ときたら、大人びているのか子どもっぽいのか分かりゃしない。
「はいはい、驚きましたとも。でも、次回はもっと相手をいたわってね。ユナンみたいになんでも身軽にできる人なんて、そうそういないでしょうから」
 タリカーンはさっさと会話を切り上げて、細心の注意を払って山の斜面を下り始めた。
 後ろからはまだユナンがむっとしているような空気が伝わって来ていたが、振り返ることはなかった。…したくても出来ない状況だったが。
 地に両足をつけると、地面とはこんなにも安定した居心地の良いものだったか、と感動を覚えた。  
 なんだかまだすねているユナンが斜面を手際よくさっと下りてきて、タリカーンの横に並んだ。
「あんたはまだ信じていないようだけど、次に僕に罠が仕掛けられたら、嫌でも信じるよ」
 ユナンはこりもせずにその話題を出した。まだ話したいことがあるらしい。
「…えー…?それ、どういうこと?」
「マラボイがああいうことをしたのは、初めてじゃない。段々手のこんだことをするようになってきたけどな。すぐにまた僕を殺そうとするはずだ」
 タリカーンはぎょっとした。嫌な汗を感じる。
「本当?…じゃ、危ないじゃない!どうする気?」
 ユナンは得たりと微笑んだ。
「だから、あんたの力でそれを事前に察知できれば、僕は安全なんだ。――タリカーンの力って、どんなのなんだ?」
 タリカーンは思わず呆れた顔を見せてしまった。どうして彼がこうも自分のことをさらけ出したのか不思議だったが、ここに話を持っていきたかったのだ。なんて好奇心の強いやつなんだろう、と呆れ果てて何も言えない。ユナンの表情を見ていたら、負けるつもりはないのがよく分かる。本当はタリカーンの力を当てにしているわけではないのだ。
「…あなた、私が教えてあげたら、どうするの?」タリカーンはあえてそう聞いた。
「もちろん先回りしてマラボイを叩きのめす。これ以上やつに調子にのらせるわけにはいかない」ユナンは強く言い切った。
「…じゃ、私が何も教えなかったら?」
 ユナンはようやくタリカーンの顔に浮かんでいる表情を見て、少し困ったように眉を寄せた。それでも彼は人を油断させようとする笑みを浮かべた。
「タリカーン。あんたが教えないわけないよ」
「たわけ!あんたは私の力が知りたいだけでしょうが!」
 タリカーンが怒ると、ユナンは正直に白状した。「うん。僕一人でもマラボイに思い知らせることはできる」
 呆れた、と呟いてタリカーンは一人で宿舎へ帰ろうとした。ユナンがまだ聞き出そうとついてきたが、無視してさっさと歩いた。


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