身代わりの少女 ルイアナ


序章        一.

   人は春の日差しの中で、喜びに叫んで走り回った。
   -----(この箇所判読不可。)----
   ハムロスとエバノンの出会いより此の方、平和の続くこの街へ、----
   女神リアンナの微笑が私の上をかすめ、広く人々に吹き渡った。
   祝福と幸いが私たちを包みゆく。
   クスキオンの繁栄が、常永久(とことわ)に続くことを約すかのように。

                           ――後世、古代都市跡より出土せる碑文から




 人の群れが黒くかたまって広がっていた。

 少し小高い丘から見下ろすと、雑多な布切れや砂埃に埋もれて、そこに先ほどまで埋没していた自分が、本当に小さなものに思えてきた。

「――カロン」

 呼ばれて、小さな少女は振り返った。疲れて石のように白く無味な母親の顔があった。
「おいで」
 カロンは砂粒のついた母親の服にかじりついた。母の細い指が、その髪を撫でた。
「見失ってしまうから、離れないで」
 母親の声はひどく疲弊していた。カロンは大人しくうなずいた。

 少女の手を引き、母親は寝床となっている場所へ歩いて行った。
 寝床といっても、この前まで父親の肌着だった布が地面に敷かれているだけの場所だった。
 兄弟の誰かが、必ずそこにいて番をしていた。今兄弟たちは遊んでいた。

 人がひしめき合うこの場所では、ちょっとでも側を離れると、たちまち周囲からぎゅうぎゅうに押し寄せる人の体に占拠されてしまう。
 布で区切られたその小さな四角い空間が、家族の住処(すみか)だった。一家は、夜は二重に着込んだ衣服に包まり、夜空を仰いで寝ていた。

「――食糧は?」
 父親が母親にたずねていた。
 母は黙って首を振った。
 誰かから分けてもらえないかと言って、母はさきほどからカロンを伴なってこの人の集合地を回っていた。しかし、結果は芳しくなかった。

 誰もが食糧を求めて歩き回っていたし、子供のみならず、大人もじっと膝を抱えて空腹をやり過ごしていた。

 まだ活力のある人間が、時おり食料を巡っていさかいを起こしたが、こういった殺気立った空間での揉め事には非常に敏感になっている周りの人々が、すぐにやめさせていた。
 そう言う時には、どちらが悪いとか分かろうと努力されることもなく、大騒ぎしていた方の人間を、あるいは両方ともを、力づくで黙らせ、どこか知れない所へ追いやっていた。
 周りにいた人は、時々起こるそうした混乱を顔を上げて無表情に見やり、おさまる前に、関心もなく首を戻していた。
 じっと照りつける日に、みな汗を流していた。辺りには人いきれが砂ぼこりとともに立ち昇っていた。

 人々は故国を追われて逃れてきた人々だった。戻っても、敵兵が既に町を占領してしまったので、彼らに帰る場所はなかった。


 カロンはおぼろげにそうした事情を承知していたが、一切を飲み込んでいるとは言えなかった。
(……あたしたちは、どこかへ逃げなきゃいけない…)
 言葉少なに語られる両親と年かさの兄弟たちの会話から、カロンはそれだけ分かっていた。それだけで十分だった。

 この土地には住んでいる人々はいなかった。牧草地もないので、遊牧民も来ず、開墾できる土壌もないため、農民はいなかった。つまり不毛の土地ということだった。
 よく分からないが、みんなここに留まって、何するでもなく空腹を紛らわせていた。
 早朝に、子どもや女が一時間かけたところにある泉に水を汲みに行っていた。
 千を越す人々の喉がその泉にかかっていたので、今ではその湧き水には番人がつけられていた。

 カロンの一家は、始め叔母の一家と行動を共にしていた。しかし、ここに留まって何日目かで、父親同士が何か口論し、それ以来離れて行動していた。
 何も気が立っているのは父だけではなかった。そうした口論はそれ以後そこここで見られた。

(…暑いなあ…。…お腹も空いた。叔母さんの鍋で、パッチナを焼いて食べられたらなあ…)
 カロンは思った。
 叔母さんは大きな丸い鍋を背負って逃れてきていた。少し前まで、持っていた麦を捏ねて、それで焼いて食べていた。――パッチナは練った穀物(普通は麦)を伸ばした生地を焼いたものだ。
――あの喧嘩があってから、パッチナを食べていない。カロンの口の中に唾が湧いてきた。

「…ねえ、いつまでこんな所にいるんでしょう…」
 母の漏らす声が聞こえてきた。
「そんなこと言ったって、ここからどこにも行けんのだ。どうしようもない」
 父が不満そうに答えている。

 もう少し西に行けば、敵兵たちの本国、タルメニャンがある。つまり敵地だ。
 行くとしたら南のペネウス国なのだが、険しい山脈が邪魔して、少数の人々を除けば誰もそちらへは進もうとしなかった。
 南西にもう一つ道がある。カピトゥー国だ。海に面し、交易で栄えた国だった。
 しかし、そこへ行くまでに経由地として通る町が、大勢の難民がこちらにやって来ると知って、慌てて門を固く閉ざしてしまった。
 難民が町に入れば、備蓄した食糧を巡って争いになるか、持ち込まれた病が蔓延するかもしれないと恐れたのだ。街道上の砦として機能している町だから、そこを越えずにカピトゥーへ行くことは非常に難しかった。

 それで人々は立ち往生し、このだだっ広い荒野で、前へも後ろへも進めず、ただ不満のののしりを上げて数日過ごしているのだった。

 母はいつもどおり、眉を寄せた険しい顔でしばらく黙っていた。それから走り回ろうとする子どもたちへ首を巡らし、大声で叱りつけ、側に戻るよう言った。
 カロンはただぼんやりその光景を見ていた。それから首を巡らしたところで、声を上げた。

「――…あれ」
 遠い道の向こうに、数人の人影が見えた。
 カロンの他にも何人かが気づいていた。そちらを見て、指差したり、怪訝な表情をしていた。
「お父さん、あれ」
 父親に言うと、そちらを見た。

  ---------------  

「……誰だあれは。隊商か?」
「まあ、わざわざ街道を外れて、こっちの方へ来るわ」
 母もいぶかしんで呟いた。
 街道から外れた数人の男たちが、こちらへ真っ直ぐやって来る。

 カロンたち民衆は街道から少し離れたところへ陣取っていた。
 これまでにも、時たま街道を通る旅人はいた。だが、大勢の人々が遠くの平野に固まっているのを見ると、驚きはするものの、用心して、決して道を逸れて近づいて来ようとはしなかった。
 どう見ても豊かでない人々の群れに入ることは、賢明とは言えない。実際、旅人など来ようものなら、喜んで追剥に変身する人間が何人もいただろう。

 父は他の男たちに混じって、やって来た男たちの側へ駆け寄っていった。次々と人が集まり、そこは人だかりになっていた。その中央で、やって来た男たちは人々に何を話しているのだろう。
 カロンは遠くから少し不安な気持ちで見ていた。そのうち、さざ波が広がるように、人々の間に動きが広がっていくのが見えた。

 帰って来た父は、何か複雑な顔をしていた。
「あなた、あれは誰だったの?」
「北のモルスという町から来た連中だそうだ。お前、知ってるか?」
「さあ…」
「なんでも、そのモルスで、今王族の命令で大きな治水工事をしているらしい。それに人手が欲しくて、人を集めているそうだ。百姓や奴隷だけでは足りないらしい。安いが賃金も出すと言っていた。みんな、それに行こうかと言っている」
「まあ」
 母は黙ったきり、なんと言っていいのか分からないような顔をしていた。

 モルスなど聞いたこともない町だったし、その治水工事の間そこに住めるのか、家もくれるのか、ずっと住んで働けるのか、詳しいことなど何も分からない話だった。
 人々は、みな町から逃げてきたかつての民衆だったので、自然、生き残っていた町の有力者――政治家や貴族が音頭をとっていた。
 それらの有力者たちは、まだモルスの男たちから話を聞いていたが、すでに人々は動き始めていて、どうやらその町を目指すことになりそうだった。

 わずかな家財道具を引っくり返し、荷物をまとめる音が辺りに響いていた。
 シーツと木の枝で作られた日よけ布や天幕が畳まれた。その側では、まだ絞め殺されていなかった鶏や山羊などの家畜がつつかれてけたたましい鳴き声を上げた。
 あちこちで座っていた子どもたちは、母親からお尻を叩かれて、年寄りや病人は側の家族に腕を支えられ、男たちは顔を突き合わせて相談しながら、すでにこの平野を出る準備をしていた。

 有力者たちは、話を聞き、吟味した結果、モルスまで行くと号令をかけた。その指示を待つまでもなく、人々は既に歩き出そうとしていた。

 カロンが不安な顔で突っ立っているので、母親が人の間をすり抜けて手を伸ばした。
「もう。早くこっちへおいで。この子はいつもぼうっとして」
 母は周りを見て、ちゃんと子どもたちが全員いるか数えた。それから少ない持ち物を家族全員で分けて持って、移動する人々の群れに混じった。

 カロンは唯一家から持ってきた着物を抱えていた。隣では兄がたらいを持っていた。
 今では食器代わりになったり、顔を洗ったり歯をゆすぐ時の水入れとして大活躍していた大事な家財だった。その兄も不安げな顔で周囲を見回していた。
 弟たちはちょこまかと大人たちの足元を動きながら、時折じっと不思議そうに進む先を見つめて、怪訝そうに両親を振り返ったりした。
 道中、見慣れない風景を指して、母親にたずねたりしたが、母も知らないと答えるしかなかった。
 既に成人している上の兄二人が、時々叱り飛ばし、あるいは背におぶって、足の遅い弟と妹の様子を見ていた。
 父親はただ黙々歩いていた。時折後ろを見ては、遅れている子どもを見つけると、自分は家財道具を持っているために、兄たちに背負うようにうながした。

 十日ほど前に大急ぎで町から逃げた後、しばらくそうしていたように、彼らはただ歩き通した。モルスの男たちは列の様子を見て、有力者たちと相談し、その歩みを速めたり遅めたりした。
 途中、夕闇時に追剥に襲われたこともあった。人々は恐慌をきたして散り散りに逃げた。しかし、また何事もなかったように集合して、同じように進んだ。そうして十二日後に彼らはモルスへ辿り着いた。



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