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 ほとんどの人はモルスという町を知らなかった。誰が治めているどんな民族の国なのかも知らなかった。
 それで門が開くまでに、その門前の広くならされた土地で、不安そうな顔で門扉と高くそびえた壁を眺めていた。
 門が開き始め、中の様子が見えると、人々は恐れる声と怒号を上げて騒いだ。
 門の向こうには鎧を着込んだ兵士たちが大勢並んでいた。

 門が開くのを待たずに、人々は異変を察知して逃げ出した。しかし、いつの間にか後方から現れた別の兵士たちが、長い槍を突き出して、ちょうど羊を囲いに追いやる牧童のように、逃げる人を周囲から追いつめて取り囲んだ。
 端にいた何人かの人が血に濡れて倒れ、他の人々は悲鳴を上げて後じさった。辺りに泣きわめく声と怒りの声が響いた。石や物を投げて虚しい抵抗を試みる男もあった。

 カロンには何がなんだか分からなかった。

 突然周りの大人たちが大声で騒ぎだし、気がつけば、甲高い悲鳴や怒った声の飛びかう、人の波に揉まれていた。
 母親は必死に子どもたちを守ろうと左右に手を伸ばしながら、目を大きく開いて叫んでいた。
「……なんてことなの…!なんてことなの!…おお、あの恥知らずども!」

 母親が見ているのは、恐れて逃げ惑う人々の向こうで、導いてきたモルスの男たちに保護された、町のかつての有力者たちの姿だった。
 彼らは人々をなだめすかして率いてくる役割を務め、ここに着くやいなや売り渡した。そうして以前のように安全で豪奢な暮らしを買ったのだった。
 人垣の向こうに見える、恥知らずで情け知らずの男たちの顔をにらみ、母親はわなないていた。自分たちは卑怯な罠に陥れられたのだ。
 人々は散り散りになりかけたものの、すぐに丸く狭められた兵の輪の中で、恐怖に身を震わせながら座り込んだ。

 兵士たちは更に前に進み、怒鳴って何事か叫び出した。
「……男だ、男だ……!男は立て、こっちへ来い…!」

 カロンは相変わらず呆然としていた。
 母親はしゃがんだまま、手当たりしだいに手を伸ばし、子どもたちに触れ、確かに無事なことを確認していた。
 カロンも何度目かに頭と頬を乱暴に撫でられ、後ろから強く抱きしめられた。
「…じっとしてるんだよ…!じっとして」
 ささやく母の声は震えていた。カロンは呆然としながらうなずいた。

 兵士たちは男を列から出させ、身につけていたものをその場で乱暴に取り上げると、四角い列をつくっていた兵士たちの中へ入れた。
 男を全員とり囲むと、彼らはそのまま門の向こうへ行進しだした。
 何か大きなわめき声が聞こえた。抵抗しようと何人かの男たちが拳を振り上げて槍に向かったのだ。しかし、その騒ぎもすぐに収まり、粛々とその列は門の中へ吸い込まれていった。
 槍で突く真似をして、兵士たちが残った女たちに身につけている物を地面へ捨てさせた。
 装身具も一切つけるなと何度もわめき立てていた。もちろん、人ごみの中で何人もの人がそっと体のあちこちに腕輪や宝石を隠した。

 母親はさっとカロンの上にかがみこみ、素早く彼女の口を開けさせた。
「口を開けて、舌を上げなさい!……はい、閉じて。絶対に口を開けちゃ駄目よ。飲み込まないようにしなさい。…いいえ、見つかりそうになったら、いっそ、飲み込んでしまいなさい」
 母親がカロンの舌の下に置いたのは、小粒の宝石がついた指輪だった。
 カロンは母親の気迫に気おされてうなずいた。
 女たちは町を出た時よりさらに貧しい格好になって立たされた。そして男たちと同じように町へ入った。


「…お母さん。…どうなるの?」
 弟が母を見上げてたずねた。幼い子どもは、男とはいえ誰も差し出そうとしなかった。
 モルスの兵士たちも幼い者まで選別しようとはしなかった。
 しかし、年長の兄二人は、父親について行って、この列からは出てしまった。
「いいから。ちょっとの辛抱だから」
 母はひそめた声で幼い子どもを静まらせた。

 もう一度弟がたずねると、母は堪えがたい顔できつく口を引き結んでいた。それからさっきとは違った穏やかな声で、弟の顔を撫でながらこう言った。
「…いい?しばらく恐い人たちに囲まれるけど、あんたは何も心配しないの。こうやって頭を撫でられていればいいんだからね。何か恐いことがあったら、頭を撫でてあげるから、お母さんに言いなさい。文句を言っては駄目。ここが引越してきた町よ。前暮らしていた町とは、何もかも違うことばかりだから、母さんの言うとおり、一つ一つ覚えていくのよ。そうしたら、始めつらくても、そのうち慣れてくるからね」
 子どもたちも、モルスの男たちに騙されたことぐらいは分かっていたが、本当の事情はまだ飲み込めていなかった。
 それで不安げな顔で、また母親を見上げて大人しくうなずいた。周囲ではすすり泣いている女の人たちもいて、不満の声を上げられるような雰囲気ではなかった。
「新しい町なの?周りの兵士は?戦争なの?」
 小さい弟がまたたずねた。戦いは前の町で終わったと思っていたので、彼はひどく悲しそうだった。
「戦争にはならないよ」
 母親は呟いたが、彼女は暗い顔をしていた。
 カロンは時々聞こえる兵士たちの怒鳴り声に怯えて、足をすくめることも度々だった。その時誰かが呟いた。「――奴隷にされるんだわ」
 カロンははっとして母親を見上げた。

 前の町で戦争に負けそうになった時も、大人たちはそう言っていた。
 殺される、奴隷にされる。敵兵たちが押し寄せた町は、嘆きに包まれた。それで彼らはからがら逃げて来たのだ。
 カロンも奴隷は見たことがある。
 昔戦争に負けて捕虜になったという男で、近所に住んでいる金持ちに使われていた。子どもたちは彼らを野蛮人だと言っていじめたりした。金持ちの家には必ず奴隷がいて、街の色んなところ、特に体を酷使する厳しい仕事場でよく見るものだった。

 自分があれになるのだろうか。カロンは死ぬほど恐かった。
 動物みたいに鞭で打たれたり、とぼしい食料で痩せた体になったり。カロンは見聞きした知識だけでも、それがとても辛いものだろうと知っていた。彼女の体が震えてきた。
 母親が手を伸ばしてカロンの肩を撫でた。見上げた母も絶望した顔をしていた。

 女たちは塀で囲まれた場所に移動させられ、もう一度身につけている物を捨てるよう命令された。
 衣服を何枚も着込んでいた者も、しぶしぶ捨てた。腕輪などを隠し持っていた女が何人も、兵士に腕を掴まれて、出すように脅されていた。
 周りにいた人間は、口を閉ざしているか、黙って隠していた物を地面に落とした。
「………」
 カロンは口を固く閉じたまま、母に目をやった。母は目つきで吐き出すなと言っているようだった。カロンは元通り視線を落とした。
 彼女たちはまた移動させられた。

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 少し位の高そうな男が出てきた。
 彼は冷ややかな顔で、面前に集まった人々に告げた。

「――今日からお前たちはこの町で働くことになる。さっきお前たちと別れた男どもも同じだ。それまでの金品財宝の類は、一切を献上し、ここでは、身体の動く限り働け。けちな反抗心やつまらない誇りは捨て去ることだ。いいか、これからめいめいを人買いどもに引き渡す。いらぬ騒ぎを起こそうとしてみろ。お前たちはこの町の僕(しもべ)になった。これからは、労役にたずさわることを、喜びとし誇りとしなければならない」
 人々の間から嘆く声が上がった。
 男は顔を険しくした。
「泣いている暇があったら、働いて汗を流さねばならない。町の人間より何倍も労働にたずさわり、朝日が昇る前に起き、夜日が沈んでも暮らす生活に早く慣れなければならない。それがお前たちの義務になる」
 私たちはお前たちの僕にはならない、と誰かが叫んだ。
「…知るもんか!こんな町に入れてくれなんて頼んじゃいないよ!あたしたちは働けると聞いて、連れて来られただけ。あんたたちのような愚鈍な人間の奴隷には、誓ってなるものか。いいかい、この悪魔め、恥知らずめ!けだものめ!同じけだものなら、いっそ荒野に放り出されて、食われちまった方がましさ!」
 賛成する人々の声が上がっていた。
「黙れ!黙れ!たわけたことを言うな」
 男が叫び、兵士に合図を送った。
 兵士が叫んだ女を取り囲んだ。剣がひらめくのが見えた。見せしめに血を流しても、気の強い女はずっと喚いていた。
「黙れ!一番きつい仕事に向かわせるぞ」
 男は叫んだ後、もう一度人々の頭を眺めた。
「…さあ、並べ。一列に並べ!」
 年寄りが分けられ、次に病弱な人間は追いやられ、人々は別れさせられた。健康そうな女たちは、あちこちに連れていかれた。
 カロンの母は必死に子どもたちと離れまいとした。何があっても、カロンたちの肩から手を離さないよう、強く掴んで近づく兵士らを睨んだ。その甲斐あって、引き離されることはなかった。そうして幾人かの女たちと一緒に、ある場所へ向かわされた。



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