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 金持ちの家みたいだ、とカロンは連れていかれた屋敷を見て思った。

 大理石の柱がそびえ、浮き彫りの華麗な装飾に彩られた、それは豪奢な館だった。
 一体どれだけの人夫を動員したことだろう。照らす日が、椰子(やし)の葉をかたどった模様や、棕櫚(しゅろ)の葉を象徴的に描いた図に陰影を刻み込んで、その丹念な職人たちの技を浮き上がらせていた。
 だが、カロンにはそれらのきらきらしい装飾も、不気味で寄りがたい悪趣味な文様に思えた。
 カロンが通りすがりに見上げると、庇(ひさし)の先で、魔を払う古えの獣が、大きな口を開けてこちらを見下ろしていた。
 門の脇には、この屋敷の主人の誉れある人生と偉大なる業績が、大きな文字でこれ見よがしに刻まれている。
 庭には下水から引かれた水で、噴水が流れ、動物の彫刻が水に濡れている。広大な庭には珍しい花が咲き誇っていた。
 連れて来られた人たちは、不安そうに見回しながら、人買いと兵士に急かされてそこを歩いた。

 それがどんな名前のどんな役職の人間の家だったのか、カロンはとうとう覚えずに終わった。
 屋敷の片隅の小屋のような建物が、カロンの住む場所になった。大勢の下僕がそこに寝泊りしていて、カロンたちはそこに加わった。

「言われたとおりにやるんだよ」
 母親は子どもたちに何度も言い聞かせた。

 召使いたちは大勢いて、年季ある者や、能力のある人間、一癖ある者が指導にあたっていた。
 入ってきた当初、カロンたちは徹底的にいじめられたり、しごかれたりした。カロンたちは言われたとおりに日々与えられた仕事をこなすようになった。
 末の弟はとても働ける年頃ではなかった。母親が上級の僕に願うと、弟は働かなくてもよくなった。こうしてカロンは兄弟と母親と一緒に、屋敷の召使いになった。

  --------------

 父親とは、別れて二週間ほどして母が再会できた。

 母親は他の奴隷と一緒に通りを歩いていた。
 屋敷の主人の娘の世話を仕切る、召使いの中でも一番位の高い召使い頭(がしら)が、市場で買い物するというので、その荷物運びのために、他二人の召使いと歩いていた。
 母は通りを歩いていて、遠くに夫の姿を見つけて、顔色を変えた。
 横にいた仲間が気づいてたずねた。
「どうしたのよ?」
「…夫がいるわ!…別れたきり、見ていなかった夫だわ!」
「え!本当?」
 その女も、町を逃れて、モルスで奴隷にさせられた女だった。彼女は不安げな顔で召使い頭の姿を見つめた。
 頭も元々奴隷で、少しかんしゃくを起こす癖を覗けば、いい人柄の女だった。
「分かった、聞いてみましょうよ」
 女は近寄って、頭にうやうやしくたずねた。
 頭はびっくりした顔をしていたが、すぐに目で行って来いと素早くうながした。
 往来のことなので、もし他の召使いたちに目撃されて、主人たちに告げ口されたら、彼女にも迷惑が降りかかる。しかし頭は、短い間のこととて、市場の店先に目をやってそ知らぬ風にしていた。

 母親はすぐさま夫の元へ駆け寄った。
「……あなた!」
 夫はそれこそ仰天したように、目を丸くさせていた。それまで暗く伏せがちだった瞳の中に、見る見る広がったものがあった。彼は腕を広げて妻を抱きしめた。
「ああ…」
 二人とも声を出すのもこらえて、早々に物陰に隠れてさっそく話した。

 夫は妻にどうしていたのかとたずねた。
「子どもたちは無事か?みんなどこだ?一緒にいるのか」
「ええ、みんな無事よ!一緒にいるわ」
「そうか!」
 夫は目に涙を浮かべて感動しているようだった。
 妻は今のみんなの状態を簡単に説明した。
「…あの子たちは?グステフとアロンは?」
 妻は長兄たちの名を出し、夫の後ろにも目をやって探した。
「あの子たちの行方も分かっている。隊が違うから、中々話が出来ないが…」
「隊?」
「ああ。俺たちは兵隊になったんだ」
 妻の顔が曇った。「あなた、兵士にさせられたの?」
「ああ、そうだ。男はほとんどが兵士にさせられた。すぐにも、戦争があるようだ」
 奴隷が兵士として使われるのはよくあることだった。一番危険な前線で、せっつかれながら矢面に立ったり、船を漕いだりするのだった。もちろん自由は厳しく制限されていた。
「まあ!…なんてことなの。なんでこんな町のために戦わなくちゃいけないの!」
 夫は心配そうに妻の背後へ目をやった。「…大丈夫か?人が待っているみたいだが」
「ええ…」
 妻は後ろを振り返った。
 それから彼らは相談して、時々町で会えるように段取りをつけた。


 カロンはその日、その話を母から聞かされて、とてもうれしくなった。
「…本当!?お父さんも兄さんも無事だったんだ!無事だったんだ」
「そうよ。みんな元気なのよ」
 母も機嫌よく言った。
「またみんなで暮らせる?」
「さあ…どうかしら」 
 母は少し陰りのある表情になった。つられてカロンまで不安な顔になった。
「…お母さん。頑張って働いたら、召使い頭になれる?」
 カロンが突然たずねると、母親は驚いた顔をした。「何故?」
「頭になって…お金持ちになるわ。そしたら自分たちの家を持てるでしょう?」
 母は黙っていた。
「二丁目の通りにある大きな神殿、お母さん知ってる?」
「いいえ?なんなの?」
「あの神殿、偉い軍人さんが建てたんだって。軍人だけど、元々奴隷だったんだって。奴隷でも偉くなる人もいるんでしょ?あたしも頑張って偉くなる」
 母親はほんの少し憐れみと愛情のある眼ざしで娘を眺めた。「ええ、そうね」
「それとも、兄さんたちがなってくれるかしら」
「ええ、そうね。多分、兄さんたちが…なってくれると思うわ」
 母親はそれきり黙りこくると、早く弟たちを寝かしつけるようにカロンに言った。
 カロンは素直にうなずいて弟たちを寝かせ、自分も寝転がった。
 人が狭苦しく雑魚寝している部屋で、熱や汗の匂いがこもっていた。カロンは既にそれに慣れて平気になっていた。
 そうして寝ていると、かつて固い地面の上で、夜空を仰いで寝ていた平野の記憶が蘇ってきた。それもすごく昔のことに思われ、不思議な気持ちでいると、いつの間にか寝てしまった。

  ---------------  

「早くしなさいよ」
 古参の下僕が、カロンを叱りつけた。
 カロンは重たいかめを頭に抱え、屋敷と納屋を何往復かしていた。
「まったく。足が遅いんだから」
 何度目かになる小言を吐き出し、下僕はいらいらしたようにカロンを睨んでいた。周りで働いていた人間まで肩をすくめた。その場には幼い者が多く、誰もが痩せた体で労働していた。

 カロンは手が遅いことを自分でも分かっていた。
 しかし、ぐずだとか間抜けだとか言われるたびに、しこりのように重たいものが心に沈んでいったが、それについては分かっていなかった。
 ただひどく小さな声で、返事したり、うなずいたり、黙々手を急がせるようにして応えようとした。

 屋敷は広々した領地を囲っていた。そこにある畑の作物の世話をしたり、臼で麦を挽いたり、屋敷の荷物を運んだりすることが奴隷たちの仕事だった。
 よく日の照る畑でずっと水も飲まずに作業しているのは辛かった。頭がかっとする熱気の中にいると、気分が悪くなって、カロンは倒れていた。
 しかし、すぐ鞭に叩かれる鋭い痛みに目を覚まし、悲鳴を上げて飛び起きた。

「…さぼろうだなんて!いいご身分だな?ええ、こずるいガキめ」
 先輩役の召使いは憎々しげに叫んで鞭を振るった。昔自分がぶたれた分も振るうように、それに加減はなかった。
 すぐにカロンが作業に戻っても、鞭は振りかざされていた。ひどく打たれると、皮膚がざくろのように裂けて真っ赤になった。
 カロンは恐ろしくてそれを恐れ、どこにいてもそれが飛んでくる恐怖から逃げられなかった。

 叩かれるのも辛いが、その傷が膿むのはさらに恐怖だった。
 召使いたちの小屋は汚らしく、腫れた傷口が治らず、そのまま高熱をもって死ぬ者も多かった。
 母親は涙ぐみながら、気休めにカロンの傷口を撫でさすってやった。親切な先輩の召使いが、苦ミョンギの葉を潰した薬を、傷口に擦りこむことを教えてくれた。

 くたくたになって、夜になり、召使いたちの小屋へ戻り、いつもすぐ横になった。
 配られる食事は、朝と晩。屋敷の主人たちが贅を極めた食事をとっていることは知っていたが、自分たちの前に並べられる貧相な食事を見ると、ふと、本当にそんなものがあるの?と彼女は考えてしまった。
 同じ敷地の中の、すぐ向こうで、本当にそんな贅沢な、きらきらしい豪華な晩餐など、存在するのだろうか?それは想像するのさえ彼女には難しかった。


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