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 ある日、父が見知らぬ男を宿に連れてきた。
 始め一階でそいつと話していたようだったが、家族のいる二階の部屋へ上がってきた。
 父にともなわれ、男たちが部屋に入ってきた。二人いた。

 前触れも何もなかったので、幼い子どもたちはひどく驚いて固まった。
「…誰なの……?」
 母はいぶかしげに父にたずねた。
 このところ、夫が稼ぐ当てを探して、自分にも何も相談せずに町をうろついていることで、彼女はずっと不満そうな顔をしていた。
 それで入ってきた男たちを、客だろうがなんだろうが思い切り睨んだ。
 カロンはそんな母の様子を見て、なおさら見知らぬ男たち警戒をして、母の背に隠れた。

「どの子だ」
 男の一人がたずねた。
 父が何か言って、カロンの方を指した。
 男たちが近寄って来るのを見て、母はその前に立ちふさがった。
「――ちょっと!」
 母は男と、それから夫を睨んだ。「なんなの?娘に触らないでちょうだい」
「その子の顔を見せてほしい」男は言った。
「誰なのあんた?……人買いなの?」
 母は父へ顔を向けた。
 父は黙っていた。
「…あんたたち、この子をさらう気なの?」
「勝手に連れて行ったりしない。あなたに納得してもらうことなしには」
 男は言った。
 男が話しているのは、大陸で広く使われるウラム語だ。どこか上品な話し方だった。
「ただし、金を出すかは、お嬢さんが健康で丈夫かどうか確認してからになる」
 母はまだ警戒していた。
 もう一人の男が首を伸ばし、カロンの姿を一瞥した。「悪くない」
「病気は?」男は前に立つ母から、父へ首を巡らした。「体は丈夫か?」
 父は黙ってうなずいた。
 母はもう一度父を睨んだ。
「…あたしの娘でもあるのに!勝手にこんな連中を連れてくるなんて!」
「俺の子どもだ。俺が決める」父は怒っていた。
「カロン」
 母はカロンの肩に手を置いた。いつもどおり温かいぬくもりが伝わってきた。
 それから少しして、迷った気配のまま、男たちを見た。
「いくら出すつもりなの…?この子はすごく丈夫だし、素直な大人しい子よ。世迷言言うつもりなら帰ってちょうだい」
 カロンも男たちを見上げた。男たちは値段を言った。
 母がぎょっとするのが分かった。
 子どもたちにも、それがとても大きい金額だとは分かった。数年家族が暮らしていけるだけの十分な金額だった。
 母はいぶかしんで眉間に皺を寄せていた。「どうしてそんな…?」彼女は呟いた。
「破格だろう」
 男が言った。変わらず上品な発音だったが、どこか見下したような響きがあった。
「あるやんごとない生まれの方に、侍従としてお仕えすることになる。この上ない幸運の巡り合わせた」

 母ははっきり震えていた。彼女は決めかねて、夫の方を見た。父は固い表情だったが、もう決めているように見えた。

 子どもが人買いに売られるのはよく聞く話だった。
 カロンも、親が子ども全員を養えないのは知っていた。いつこうなっても不思議ではなかった。それで母を仰いだ。
 母が気づいて、カロンを見下ろした。こちらを見上げる子の瞳を見るうちに、彼女ははっとした。娘がうながしているのを知ったからだった。
「……ごめんね。カロン」
 部屋の空気が、ほっとして緩んだようだった。

 カロンはちらりと男たちの方を見た。男の一人が気づいて視線を落とした。
「…奴隷じゃ、ないのかな」
 カロンは母の方を見やりながら、小さく呟いた。
「奴隷ではない」男の一人がそれに答え、淡白に言い切った。
 それでカロンはほっとした。たとえ親たちを困らせても、またあの生活に戻るのは心底嫌だった。奴隷ならば泣いて嫌がっただろう。
「高貴な方のお身の回りの世話をする近侍は、お前たちが思っている以上に豊かで安心した暮らしを送れる。しかし、主人に反抗する愚かな人間ならば、鞭や罰が下される。当然のことだ」
 男は淡々と告げた。

 両親は男たちと相談した。
 男は懐から砂金の入った袋を取り出すと、テーブルに置いた。
 両親はまじまじとそれを確認して、うなずいた。
 他の兄弟たちは徐々に不安げな声を漏らしていた。兄弟がいなくなるという言いようのない不安で、彼らの顔は曇っていた。
「お姉ちゃん…」
 末の弟が小さな手でカロンの腕に触れた時、男の無情な声が降ってきた。
「――行くぞ。来い」
 父と母はぎょっとした。
「今から連れて行くのか?」父がたずねた。
「そうだ。我々は今日ここを発つつもりだったんだからな」
 男は何を言うのか、という顔で答えた。
「別れぐらい惜しませてくれてもいいはずだ。家族と別れるのだから」
 男の一人は苛立った舌打ちをした。「何を呑気なことを言ってるんだ。急ぎで見つけたいから、大きな金を出したのじゃないか」
「しかし…あまりにも」
「早くしろ。船に乗るんだ」

 カロンは苛立った声に驚き、男を振り返った。目を見開いた子どもの姿に、男はうんざりしたように言った。
「聞き分けがいいんだろう?早く来い」
 母はカロンにかがみこんだ。そして強く抱きしめた。
 カロンは母親のぬくもりを感じて、背に腕を回してかじりついた。
 きっと抱きしめられるのはこれが最後になる。
 …ずっとこれを覚えてられるかな?彼女は不安に思った。よく分からないが涙が出てきた。

「ごめんね……。わけが分からないだろうに、カロン、ごめんね」
 カロンは身を離し、涙を溜めてこちらを見つめる母の顔をじっと見た。
「大丈夫だよ、お母さん。みんなちゃんと暮らせるんでしょ」
 娘が言い終わらないうちに、母はもう一度強く抱きしめた。
「…ごめんね。お前がもっと大人で、ちゃんとものの分かっている子だったら、こうやって簡単にあたしたちの考えにうなずいてくれなかっただろうね。それなのに…。ああ、ごめんね」
「お母さん」
 ちゃんと分かってるよ。それだから行くんだよ。
 カロンは泣く母を慰めたくて、そう言ってあげたかった。だが、とっさには、言葉は思うように口から滑り出てこなかった。

 母はカロンを隅につれて行き、身支度させる、と男たちに告げて、ついたての陰でそっと我が子にかがみこんだ。
 カロンの頬を、母がざらざらした手で挟み込んで、うるんだ瞳でじっと顔を見つめた。
 母親は袖から小さな指輪を取り出し、それをカロンの指に嵌めた。カロンはびっくりした。それは母親が大事に守ってきた財産だったのだから。
「お母さん、これ」
 驚いて指を突き出すと、母はうなずいた。
「ずっと持っておいで。お前が前守ってくれた指輪だよ。お前に持たせてあげられるのは、それしかないから」
「いいよ…。だって大事にとっとかなきゃ。…あたし、お金持ちのところに行くんだよ。大丈夫だよ」
 母は首を振った。「他に何も渡して上げられないよ。大事に持つんだよ」
 カロンは呆けたように口を開けて母の顔を見ていた。

 それからついたてから出ると、部屋をぐるりと見回して、家族たちの顔を見つめた。みんなちょっと固い顔のように思えた。
「行くぞ」
 男がとうとう言った。
 カロンはうなずいて、大人しく彼らの側へ寄った。
 挨拶もなしに部屋を出て行こうとしている彼らについて、一度だけ彼女は後ろを振り返った。
 それが最後に見た家族の姿だった。

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