<< prev top next >>



 海の上はひどく気持ち悪かった。
 あまりに酔いがひどく、カロンは何度も吐いたので、それだけでひどく疲れてしまった。
 男たちは客室を使っていたが、カロンは狭い貨物室で荷物と一緒に寝ていた。それで一緒に乗り合わせた人たちが、彼女の具合いを見てくれた。

「…もう吐くものがないのに」
 カロンは吐き気をこらえて、横の中年の男に訴えた。「まだ吐きそうなの」
「船が初めてだったらしょうがないよ。まだ横になってるといい」
 カロンはうなずき、目をつぶった。
 出稼ぎに行った夫を追いかけて、船に乗り込んだ女が言った。
「お嬢ちゃん。あと十日もあれば港につくよ。頑張りな」
 カロンは眉間にしわを寄せたままうなずいた。
 しかし、船酔いのせいで辛いとか心細いとかいう気持ちは浮かんでこなかった。
 カロンは港につくと、男たちと一緒に道を歩いた。


 男たちは道中ほとんどカロンを放っていたが、とうとうある日、日の照る道を長い間歩いていた彼女は、いきなり道に倒れてしまった。
 それで男たちは慌てて具合いをたずねた。

「どうしたんだ?気分が悪くなっただけか?」
「水を飲ませろ」
「ああ」

 カロンは動揺した男たちの様子が少しおかしかった。
 多分、元々は人買いではないのだろう。彼らは小さな子どもを伴なって旅をすることの面倒さに、今さら気づいた様子だった。
「おい、具合は」
 背の高い方の男――彼の方が立場が上みたいだった。立ち居振る舞いもより洗練されているような気がする。――がたずねた。
「日射病だろう。休ませよう」
 背の低いほうの男が、布で日よけを作り、カロンの上に影をつくった。
 「…まったく、先が思いやられるな」
「だから他の連中に任せればよかったのに」
「しょうがないだろ」
 男たちはぶつぶつ文句を言った。
 一時間後、カロンが歩けるようになったと言うと、彼らはまた歩き出した。
 すでに五日、一緒に旅をしていたが、カロンと男たちが話をしたのはこれが最初だった。

 その晩、いつもどおり野で寝る前に、男たちはやっと連れの存在を思い出したかのように、珍しくカロンに話しかけてきた。
「お前、そういえばいくつだ」
 背の低い方がたずねた。
「…十。ぐらい」
「はっきり覚えてないのか」
 カロンはうなずいた。
「ウラム語は少ししか話せないようだな」
 カロンはうなずいた。
「そのうち覚えるだろ」長身の男が焚き火をつつきながら言った。
「親と離れてさみしいか」
 背の低い男は、笑いながらたずねた。長身の男が呆れたように振り返った。「つまらん質問するな、お前」
「さみしいだろ?」
 男は重ねて言った。カロンはその笑顔を少しの間見つめていた後、首を横に振った。
「そうなのか?」
「…お別れしてきた」
「それで平気なのか」
「うん」
 カロンは小さな声でうなずいた。
「しかし、薄情な母親だよなあ。もう少し大きければやめたのに、みたいなこと言っててさあ」
「そんなこと言ってたか?」と、長身の男。
「言ってただろ」
「よく覚えてるな」
 カロンはいかにも他人事として話す彼らを眺めていた。それからぽつりと呟いた。
「…よく分かんないけど、お母さんは優しいもん…」
「何?なんて言った?」
 ぼそぼそした声に苛立ったように、長身の男が声を上げた。
 カロンは肩を縮めた後、もう一度勇気を出して、自分でもはっきりしていない気持ちを呟いた。
「…でも、よく分からないけど……あたしが大きかったら、本当に困ったのは、お母さんたちなのに…。大きかったら買ってももらえないし。お母さん、なのにどうしてあんなこと言ったのかな。…あたしが大きくなくて、ほんとはよかったはずなのに」
 自分が小さくてよかったようなよくなかったような。カロンは戸惑った気持ちだった。
 長身の男がその小さな声を拾って、ふんと鼻をならした。
「そういう時、なんて言うか教えてやろうか」
 カロンは顔を上げた。
「卑怯、って言うんだ」
「ひきょう…」
 カロンはその単語を聞いたことがあった。それで口の中で呟いてはみたものの、なんだか違う気がした。
「……違う。お母さんは、それじゃないよ」
「だけど、ずるいって思うんだろう。口と心は遠い親戚、ってことわざどおりさ。本当のことからはかけ離れたことしか、言葉は語らないんだ。そういうもんさ」
「でも、お母さんは優しいんだもん」
 カロンはもう一度呟いた。
 堂々と大人と向き合って話をする勇気は、まだなかった。それでどうしても独り言のようにぼそぼそ口の中で反論した。
「まあ、お前がどう思おうが知らないがな。お前が、売られたのどうのって泣き喚かなきゃ、俺はそれでいいさ」
 それまで黙っていた背の低い方の男が、急に顔を起こした。
「…俺にはいまいちよく分からないが、なんだか難しそうな会話してるなあ、お前たち」
「馬鹿、お前」
「何?」
「お前がちょっと間が抜けてるだけだ」
「何言うんだよ」
 少し腹を立てた様子の男を見やって、カロンはぼうとしていた。

 …確かにずるいことをされたかもしれない。でも、お母さんも、他の家族たちも、ずっと優しかった。
 あんな大事な指輪までもらってしまった。お母さんも、兄弟たちも、本当に悲しくて泣いていた。それも本当なんだ。
 それが分かると、何故か今さら急に寂しさが押し寄せてきた。カロンの目に涙が溢れた。
 はっきりした嗚咽を漏らして泣くと、男たちは動きを止めてこちらを見た。

「…ほらやった。面倒くさい」
「俺たちが騒いでいるから、怯えてしまったんだろう」
 背の低い方の男が、少し不安そうに言った。
「構うか。ほら、ならお前が寝かしつけろよ。俺は寝るぞ。火の始末をしておけ」
 腹を立て、長身の男は離れた場所で寝転がってしまった。背の低い方の男が近寄って来て、困ったようにカロンにかがみこんだ。
「…おい、女の子。平気か?」
 カロンは泣いていたものの、うなずいた。
「泣かなくてもいい。今から行くのは恐いところじゃないから」
 男は用心したようにつけ加えた。「…多分な」
 カロンはしゃくりあげる嗚咽を上げて泣いていた。男が離れないので、彼女はとうとう言った。
「…ちゃんと、泣き止むから、大丈夫…」
「そうか?よかった」
 男は顔を緩めた。
「…あんまり泣いてると、もう一人の奴が怒るからな。泣き止むんだぞ。いいな?」
 カロンはうなずいた。
 嗚咽が収まると、カロンは横になった。それで様子を見ていた男も火を消して、自分も闇の中で眠った。
 カロンは夜空を仰いで、ただ離ればなれになった家族の顔を思い出していた。我慢のしようもないので、それから黙って泣いていた。


<< prev top next >>