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 夏になり、眩しい日が照りつけるクスキオンの館を後にして、ルイアナたちは別荘へ移った。
 大河フエウスの流れる岸辺を端につけ、日干し煉瓦作りの建物の密集するメネトの街は、今日も賑やかだった。

 その一画にある館で、ルイアナは横臥していた。
 張り出した庇(ひさし)に、三方は壁がなく、風が通り抜けになっている、極めて開放的な空間だった。こうしてまどろみながら景色を楽しむための場所だ。
 床下に等間隔に立てられた柱の間には、大河から伸ばされた水路からそそぐ水が、なみなみと揺れている。人口の池だ。館の背面には、モルクス杉や糸杉などが林立する森がそびえ、時に酷なまでに照りつける夏の日差しを遮っていた。
「――…そういえば、申し立て人たちがやって来るのは、今日の午後からだったわね」
 ルイアナは水面の影が揺れ映る顔を、横へ巡らせた。
 側に控えていた侍従長がうなずいた。
「はい。まもなくこちらに。謁見の用意はできております」
「そう。――では、私もそろそろ支度をしましょう」
 ルイアナは立ちあがって、侍女たちを見た。衣装替えの侍女たちがそれに楚々と集まり、準備を始める。


 カロンは扉をそっと開けて中をのぞくと、謁見の間に入った。
 部屋の中央には、すでに二人の人物が膝をついた姿勢で待っていた。
 カロンは部屋の奥にいた侍従長に、軽く辞儀をして挨拶してから、書記係りの隣へ立った。
(…これから、殿下が領地のもめ事の裁定をなさるのね……。どうしてこう、いつも大勢の訴えが絶えないのかしら…)

 ルイアナが都にいる間は、任された領地の管理人がおさめているが、ルイアナがメネト市にいる間には、直接その訴えごとを処分することもあった。
 今日行われるのも、そのような事例の一つで、争っているのは二人の人間だった。
 一人は壮年の男で、もう一人はまだ若い少年だった。
 謁見の間の下方には、今回の裁きに関係ある村人たちが、特別に館へ入ることを許され、聴衆として集まり、部屋は少しざわめいていた。

 上座に敷きつらえられた場に、ルイアナの姿が現れると、彼らは一斉にこうべをたれ、敬意を表した。
「――本日、王女殿下が特別の寛大さをお示しになり、そなたらの訴えをじかにお聴きになられたまうこととなった。しかと感謝いたし、このご温情をよく心にとどめよ。神々にも恥じぬふるまい、民にふさわしき行いを心がけ、謹んで、厳粛に言葉を述べよ」
 侍従長が重々しい言葉で二人に告げると、両人ともが深くうなずき、目線を下にしたまま謝意を述べた。
「――では」
 侍従長は書記が事前に書き上げたものを読み上げた。
「…今回の訴えは、申し立て人・メネトの良き民にしてフメールの僕、ゲオルグ・ゼン・ナイマンからのものである。ゲオルグは父のマセット氏の代から、メネトのワー村に畑を持ち、毎年の税もとどこおりなく納めている」
 侍従長は男に目を向けた。「そなたがゲオルグに相違ないな。申し立ての意志に変わりないか、今一たび確認する」
「はい、そうでございます。――私は断固として申し立てます」
「疑われし者は、彼に仕うる下男、セントン。生まれはイホンの地で、二年前からゲオルグの家に居住し働いている。そなたがセントンだな」
「はい、そうでございます」
 声こそ幼いが、少年はしっかりとうなずいた。
 侍従長はうなずき、手元の板を上のルイアナへ向けた。
 ルイアナは板に手を置き、うなずいた。訴えを受けることを承認することを示したのだ。
 侍従長が板を読み続ける。
「…ここのゲオルグについては、その正直さ、善行の高さについて、いく人かの近所の人々も証言しており、そのくわしくは後に述べる。――訴えるところについては、以下のとおりである」
 部屋の隅では、書記が手早く筆記をとる音が続いている。
「“日の注ぐ月”の十日目に、彼の敷地内において、疑われし者・セントンの手によって、申し立て人の所有する牛が盗み出された。牛は、近所の原をセントンが連れているのを、近くの住民の知らせによって、ゲオルグの家の下男に伝えられ、牛と彼はただちに確保された。この盗まれた牛一頭は損なわれることなく、家に戻された。――おぬしの申し立てはこのとおりで間違いないな、申し立て人」
「はい」
 侍従長は促した。「宣誓ののち、くわしい状況を申し上げよ」
 ゲオルグは一歩前に出て、そこでひざまずき、丁寧な礼をした後、ルイアナに向かって述べ立てた。
「かしこきセトメキオンに、誠実なる真実を申し上げることを誓います。――わたくしはここに、正しく述べます。
このセントンという小僧は、二年前、彼の父親から買い、屋敷で働かせ始めました。始めはさぼりぐせが目につきましたが、他の下男の監督も良かったおかげか、このところは勤勉に働いておりました。その勤勉さに免じて、年に二度、わずかながら褒美…食料や新しい布を少し、与えてやっていたほどです。これは他の家来も証言しておると思います」
 訴えを起こした男、ゲオルグは、自信ありげに胸を張って話している。
「それで、件の私の牛ですが、やつが盗んだのは、それはもうひどく肥えぶりのいいもので、市場にでも持ってゆけば、高い値がついたことは間違いありません。やつはそれら牛の世話をしていましたから、どれがいい値のつく値打ちものかは、きちんと区別がついていたと思います」
 ゲオルグは手を広げ、ルイアナに向かって訴えた。
「――間違いありません、殿下!奴は金ほしさに、恩も忘れ、私の牛を盗んだのです!」
 侍従長がとがめた。
「慎め。そなたは、許しもなく、直接殿下に思うまま言葉をおかけしてよいものではない。今は正確な証言をすることを心がけよ」
「はい」
 ゲオルグはちらっと不満げな視線を侍従長に投げたものの、大人しく黙った。
 侍従長がその間に、ゲオルグの善行の数々を証言する、村人や近隣の町の人々の言葉を読んだ。
 ルイアナはいつもどおり冷涼な輝きの瞳をして、ただ耳を傾けていた。そしてその目をゲオルグから少年へ移した。
 侍従長がセントンへ促した。「セントンよ、発言を許す。その日のそなたの行動を述べなさい」
「はい」
 そうはっきり返事して、横の男が下がったのと入れ替わるように、一歩前に踏み出したものの、少年の顔ははっきり緊張していた。唇がしばらく、言葉も発さずに震えている。
「――セントン」
「少年よ」
 侍従長が声をかけると同時に、ルイアナが初めて口を開いた。
「気を楽になさい。正直に話す限り、あなたの発言に対してここで罰が与えられることはない。よって、言葉つきを改める必要もない。ただ、あなたの行いを明らかにしたい。自分の覚えているとおり、そのままに話せばよろしい」
 少年はルイアナの目を見て、口元の固さをほんの少し緩め、話し出した。
「俺…わた…――俺は、確かにゲオルグ様のところで牛の面倒を見てました。どれがいい牛かってことも、よっく分かってます。…でも、この方の話で、本当なのは、それだけです。俺は盗もうとしたんじゃありません!」
「なんだと、わしはちゃんと話しとるじゃないか」
 ゲオルグが怒って隣へ顔を向けた。
「だって、年二回も褒美なんかくれたことないじゃないですか。…最初の年は、奥さまが妊娠されたお祝いにって、布をくださったけど、それっきりでした。ほんとなら、今年二回は、どうなったんです」
「今年は不作なんだ、しょうがないじゃないか。毎年まいとしやっとられるか。」
「じゃ、訂正してください。実入りのいい時の、臨時の褒美って…」
「揚げ足とりはよせ!この恩知らずめ」
 居並んだ聴衆たち――中にはゲオルグ家の者も含まれている――はうなずき合って、それなら今年の分の褒美を与えるべきだ、と騒ぎたてた。
 侍従長が余計な発言を慎むよう全員に叱ってから、改まった口調で続きを促した。
「お前の所感…お前の気持ちなどは、後でゆっくり述べるように。私はその日の行動を話せと言ったはずだ」
「はい」
 不承ぶ承うなずいて、セントンは続けた。
「――…俺はその日も、牛の厩舎の掃除をしてました。ああ、何してたかってぇと、いつもの干し草の入れ替えです。汚い干し草を、とりあえず、まあ小屋の外に積んどくでしょ、で、大きな荷車に乗せて、後で捨て場まで運ぶってぇ寸法です。俺は大体厩舎の周りにいますが、他にも何人かいることもあります。でも、そん時は大体一人でやってました。まあ、けっこう思ったより長いことかかる仕事だもんなので。アッテとセムは、ときどき手伝いに来ちゃくれましたけど…、まあ」
 平民らしい軽さで、セントンは思い出すままに話すようだった。
 おそらく雑然と話すのが癖になっているのだろう。
 そのとりとめのなさにもめげず、部屋の隅からは、さらさらよどみなく板に文字を刻みこむ書記の筆の音が響いている。書記も慣れたものなのだ。
「――で、遠くの捨て場まで捨てにいって…そこで…ちょっと時間をくっちまって、で、まあやっと戻ってきたら、牛が一頭いねぇんです。…俺、もちろん慌てて探しました。まさかって、青くなって。だって、いなくなりでもすりゃ、旦那さまにひどくぶたれるか、追い出されるのは分かってます」
「白々しい!お前がとったんだろが」
「とってません」
 セントンは横から飛んできた低い声に反駁した。
「――申し立て人。発言中の横やりはしないように」
 侍従長が冷ややかに注意した。
 ゲオルグはぶすっとしている。少年はさらに顔を険しくして、しかし顔色はどんどん白くなっていった。
「…俺、ほんとに必死になって探したんです。まず、台所でアンネスに――台所女のアンネスですよ。牛が逃げたのを見てねぇかって聞いたんです。そしたら知らねぇって。アンエスは、知るわけねぇだろ、きっと丘に逃げたんだ、って言うもんで。俺、慌てて丘まで行って探しました。よくその辺で、まあ逃げた家畜が草くってたりしやがるんです。その時、ひょっと思いついて、崖のある小岩峠まで走りました。牛が落っこちようとしてるかもって考えて、怖くなったんです。…もし崖の下に落ちてたら、俺も終わりです。俺の人生だって、ドボン、まっさかさまですよ」
 彼は笑わす気はなかったらしいが、それを聞いた聴衆たちは、こりゃいい冗談だとげらげら笑った。
 ずっと耳を傾けていたルイアナが、口を開いた。
「干し草の捨て場に行った時、時間がかかったというのは何かしら…?どれぐらいの時間のことなの」
「はい、あの、まあ……手間どって。大した時間じゃねぇです、多分」
 ルイアナはじっとセントンに目を注いだ。カロンたち従者がもっとも苦手とする、あの静かなまなざしだ。
 セントンは、とうとうその目に負けたようにうなだれた。
「…バーンの奴がいたもんで、そこでちょっとしゃべっちまってたんです。まあ、それなりの時間だったかもしれません、まあ。…その、でも、その日だけです。…そうしょっちゅうやっちゃいません」
「ふん、さぼってたわけか」
 ゲオルグが呟く。
「牛を探した後は」侍従長が先をうながした。
「方々探しても、見つからねぇもんで…。…ご領地を離れて――ほんとはいけねえこってすけど、しょうがなく…――探しに行ったんです。それで、そこらへんで、誰かに…誰だか忘れましたけど、お百姓の誰かに、向こうへ牛が行ったって聞いて、ヒナギクの原まで行ってみたんで。そしたら、牛を連れたクノッセの野郎がいたんです」
「その話は先に聞き取りで聞いている。――クノッセはいるな?」
 聴衆の中から一人の男が進み出てきた。「私がクノッセです、旦那」
「あいつです。…あいつが牛を連れていたんです!俺じゃありません」セントンは叫んだ。
「残念ながら、クノッセが牛を連れているところを見た者はいない。そして、お前の話にあった、牛がヒナギクの原に向かうのを見たと言っていた百姓というのは、探し出せなかった。記憶違いということはないのか?」
「…ありません」
 やはり青ざめたまま、しかしきっぱりとセントンは宣言した。
「俺、クノッセが牛を連れてるのを見て、何してるんだ、って大声で聞いたんです。原は…ちょうどすごい坂のきついところだもんで、下の方から声をかけたら、クノッセの野郎、ぱっと駈け出して行っちまいやがったんです。俺、おかしいって思いました。それですぐ坂を登ったけど、登りきった時には、あいつは消えてました。それで、牛の轡をとって、帰ろうとしたんです。そしたら、しばらくして道歩いてるとこに、向こうにお百姓がいて、遠くから何してるのかって聞かれたんです。で、俺は道から、逃げた牛を取り戻したんだと大声で返してやったのに、向こうは聞こえなかったみてぇで。向こうへ行ってしまいました。…そしたら…――」
 セントンの顔は曇った。
「しばらくして、大勢人が来ました。クノッセが大声でわめいて、野郎、俺に飛びかかって、あっちゅう間に、俺はふんじばられて、とっつかまって、みんなで俺が牛を盗んだんだって、騒いでるんです。…だけど、俺、身に覚えのねぇこってす。ありえません、俺が、旦那さまの牛を盗むだなんて」
「よし、お前の言う話は分かった。――次は関係する者に証言を聞く。まずクノッセだ」
 侍従長にうながされ、クノッセはうやうやしく前に進み出た。
「かしこきセトメキオンに、誠実なる真実を申し上げることを誓います。――わたくしはここに、正しく述べます。…まず、やつの証言は間違いだらけです。私がいつもどおり働いていると、台所の方で、牛が逃げたらしい、って話が出ました。で、厩舎の世話をしてる者で…アッテという男が、様子を見に行ったんです。それで本当に牛がいなくなっているのが分かり、みな、大騒ぎで探しました。私もみなと一緒に必死に探しました。そしたら、近くの百姓から、牛を連れた男が西へ歩いていくようだ、と聞いて、みんなでそっちへ行ったところ、あの小僧が――セントンの奴が、牛を連れてのうのうと歩いていたんです。みんな、同じことを証言すると思います」
「それを知らせたという百姓は」
 聴衆の中から男が手を上げ、確かに自分が教えたと言った。
「台所女のアンネス。次に証言せよ」侍従長は淡々と進行した。
「…はい…」
 落ち着かなげに目をきょろきょろさせて、若い女が前に出て来た。
「あたしがアンネスです。神様にかけて、本当のことを…あの…正直にしゃべります。…えーっと、いつもどおり、台所にいたら、セントンが来て、牛を見てないかって言うんです。すごく慌てた様子で。あたし、見てねぇって答えました。丘に行ったんだろって。それはほんとうです」
「あの女は、奴とできてんだ」
 聴衆の中から男の一人の野次が飛んだ。「お前、セントンをかばってんだろ」
「――…違うよ!あたしはほんとのことをしゃべってるだけさ!」
 アンネスは噛みつくように言い返した。
「セントンとはいい仲だろ!みんな知ってることじゃねえか!」聴衆が言う。
 侍従長はうなずいた。「アンネスと、疑われし者、セントンが近しい仲であることは、屋敷のほとんどの者が証言した。よって、アンネスの証言にはいくばくか疑わしい点がある」
「ちょっと…!」アンネスが声を上げる。
 聴衆たちがまた騒ごうとした矢先に、ルイアナの静かな声が降った。


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