<< prev top next >>


「――いやだわ」
 突然、おじからの文を見たルイアナがそう小さく呟いたので、カロンはたずねた。
「どうなさいました…?」
「何か都であったようね」
 カロンはどきりとした。この前、ルッソネムの冷やりとする出来事があったばかりなのに、どうしてこう心配事が絶えないのだろう。
「でも、詳しくは書いていないわ。…もしかしたら、こちらに来る事態になるかもしれないとあるわ。――何かしら?護衛の侍女を側から離すなと伝えてあるわ。こういう書き方は初めてよ。相当よくないことなのかしら。…あなたたちも、覚悟しておいてちょうだい」
「まあ…。セヌーンにも伝えておきます」
「そうしておいてくれるかしら」
 二人は顔を見合わせ、気うつな表情をつくった。

  -------------

 ――その日の午後……

「――ご在宅ではないようです。召使いも出ているようで、小間使いに聞きましたが、どこへ行かれたのか分からないそうです」
 先にたずねていった召使いが、そう首を振って戻って来ると、ルイアナは呟いた。
「――そう。おたずねすると打診してあったけれど、ご用事かしら…?」
 そう言ってルイアナが見上げた邸宅は、住宅地のただ中にあるもので、あたりによく馴染んだ石レンガ造りの家だった。
 父がつくった“セトメキオンの法典”に関わった人物がここにいるというので、訪ねて来たのだった。
 従者の何人かが、家の周りの住人にたずねに回った。
 カロンも、ルイアナの随行を離れて、近くへ聞きこみに回った。
「…もし、すみません。お伺いしたいのですが。――あちらに住む方は、ご存じですか?ご主人様がおたずねしたのですが、いらっしゃらないご様子で」
「さあ…。あそこの家は、よく、留守にしてるみたいだけどね」
 近所の人は、それぞれ首を振ったり、知っているが、どこへ出かけているかは知らない、と答える者がほとんどだった。

 そうして、何度目かになる問いをカロンがたずねていると、後ろから声が聞こえた。
「――お嬢さん。私に何かご用ですか」
 カロンが振り向くと、通りに初老の男が立っていた。
「あなたは、ザンメルク殿でございますか?」
「いかにも、私がザンメルクですが」男はカロンの姿を観察した。「どちらの召使いですかな?私を訪ねにやって来るのは、初めてかな」
「お会いできてうれしゅうございます。貴きお方に、アリムアンナの祝福がございますように。…我が主があなた様をおたずねに参りました。ただいま、お家の前でお待ち申しあげております」
「あなたの主とは?」
「フメール王の第一王女であり、ムル・ロマネンスであらせられる、リアンナ王女殿下でございます。王陛下よりあなた様のご高名をお知りになり、是非その明るき知見をうかがいに、たずねて参った次第でございます」
 カロンは折り目正しく目を伏せがちにして、男と同じムエンナ語(フメール諸都市で広く使っている言語)で話した。
「ああ、リアンナ王女殿下ですか。そういえば、毎年今頃は、こちらにお見えになるのでしたね」男はカロンから事情を聞くと、「……そうでしたか。ずっと家を空けていたもので、知らせが私の元まで来なかったのでしょう。そういうことでしたら、道草をせずにまっすぐ帰った方がよさそうだ」
 男はうなずいて、カロンを伴って自宅へ足を進めた。

 ルイアナは、カロンと共にやって来た男を認めると、すぐさま上位者に対する丁寧な礼をとった。
「――お会いできて光栄に存じます。誉れ高き賢者殿。無礼ながら、こちらから押しかけてしまいましたこと、おわび申し上げます」
 ほう、とザンメルクは感心したような声を上げた。「…わざわざ、私の故郷の言葉でご挨拶いただくとは、噂に違わぬ丁寧なお方ですな」
 ザンメルクは、ルイアナと同じラムビア語で返してから、周囲の従者たちにも分かるように、普段のウラム語に戻した。
「――王女殿下自らお越しになられるとは、恐れいります。私こそ、無礼をお許し願いたい。…さ、立ち話もなんです。どうぞ我が家へ。さてはて、むさくるしいところですが」
 少し気安い調子の態度に、ルイアナの従者何人かは驚いたような顔をした。侍女頭などは、あからさまに一瞬顔をしかめた。


 ルイアナは家に入ってすぐ、外観とほぼ違わぬ中の様子に、辺りに視線をやりながら感想を述べた。
「……ずいぶん慎ましやかなお住まいなのですね」
「はは、率直に狭いと言ってくださって構いませんよ。何せ自由な一人身ですから」
「そのようで」
 ルイアナはザンメルクの視線に気づき、後ろを振り返った。「…通りで待っていなさい。大勢で押しかけて、おもてなししていただくのは無礼です。私はしばらく、ザンメルク殿とお話ししています」
「ですが…――」
 反駁しかけた侍女頭に、黙って首を振り、ルイアナは顔を戻した。
 侍女頭が率いるほとんどの従者が家から引き上げた。…ザンメルクがうながすまでもなく、このようなごく普通の狭苦しい住居に、十人以上の人間が詰め込まれては非常に窮屈なのだった。

 居残ったのは、いつもルイアナを護衛している男二人に、そしてカロンと、もう一人の侍女をいれた四人だった。
 小間使いらしき中年の女が、水と干し葡萄を持ってきて、ささやかなもてなしをした。
 ザンメルクは丁寧にありがとう、と彼女に笑うと、小間使いも微笑んで返した。
「――本当にお一人でいらっしゃるのですか?」
 ルイアナは内心困惑していた。
 王宮の重要な仕事にたずさわったにしては、召使いの数が少なく、住まいも質素ではないだろうか。
「はい。召使いは、この女を含め二人雇っています」
「まあ」
 カロンも心の中で、主と同じように驚きの声を上げた。
 なんて少ない。庶民でも、下女の二人ぐらいなら雇っている家も多い。この男は名高い高官ではなかったのか?
「いやはや、そのような困ったお顔をされては、こちらが困りますな。私はご覧の通り自由な暮らしを送っているので、人がいらんのです。家を空けていることも多いもので」
 ザンメルクは穏やかに言った。彼は非常に落ち着いた態度で話していたので、もの柔らかであっても、威厳を感じさせた。
「あなたは、法官ではいらっしゃいませんの?」
 ルイアナがたずねると、
「陛下からどのようにお聞きになられているのか存じませんが――違います。今は隠居している身です。友人などに誘われて、外に出て行くこともありますが」
「まあ、そうでしたの。存じ上げなかったものですから。失礼を」
「いいえ。やはり何も聞かれていないようですね。私は陛下の膝元で、法典の制定に関わりました。それは確か…そう、二十年ぐらい前のことでした。まだ私が三十の時で、師について回っていた頃ですから」
「あなたのお師匠様とは、どちらのお方ですか?」
「ご存じではないでしょうが、カ・トカヌクという非常に偉大な方です。あれほど広い知見を持ち、世に深い理解を持った方は、またといますまい」
「その方は今…――」
「非常に残念なことですが、世から去られました。法典の制定間近の時でした」
「まあ、残念なことですわ」
「師と一緒に、私は陛下のご命令を受け、大陸の各地を旅して、さまざまな国のしくみと律を調べました。非常に苦労しました…。それだけで十年近くかかっています。さらに、帰ってから法を整えるのに五年、王宮で奏上して、発布するまでに一年かかっています」

 ルイアナはわずかに目を見開いて、驚きの表情を見せた。
 自分が生まれる前からとりかかっていた法典だとは聞いていたが、それほどまで労力をかけていたとは知らなかった。
 なるほど、父が宿願だったと話していたのもうなずける。
 彼女は深くうなずいた。
「お恥ずかしい話…今までまったく知りませんでした。そのようなご苦労をされてつくられていたとは。並々ならぬご苦労の上に出来上がった、まこと知恵の結晶だったのですね」
「嬉しいお言葉です」ザンメルクは微笑んだ。「…というのも、苦労の割りに、注目や賛辞はそれほど注がれないことの方が、もっぱら多い世の中ですから。ああ、嬉しいことだ!やっとあの忍耐と努力の辛い二十年が、今労われましたよ」
 朗らかに語るザンメルクには、人柄の良さがにじみ出ていた。
 その優しさに感銘して、ルイアナは続けた。
「…私はまだ未熟ですし、あまりものを知りませんけれど、それでも、本当に素晴らしいことだと感動いたしましたわ。心から、感謝申し上げます。ザンメルク様。あなたのような方が助けておられるからこそ、父の務めも前進できたのでしょう」
 ザンメルクはいったん快活な表情をひそめて、ルイアナの顔を見つめた。
「…久々に聞きましたよ。…『心から』、という台詞をね。昔は、真心から語ろうとする人が多かったものです。心から、と言う時、人は、本当に心を込めて話すものでした。今は違っているようですがね」
「…そうでしょうか…?」突然の話題に、ルイアナは優雅に小首を傾げた。
「ええ、そうです。心よりの言葉なんて、年々薄く、おぼつかなくなっていっています。全く、虚しいことです」
 ザンメルクは少しだけ年寄りめいた表情を垣間見せた後で、明るい調子に戻り、
「…王女殿下の前で、退屈なお話はできません。それで、今日は何をお聞きになりたくて、やって来られたのですか?」
「私がお聞きしたいのは…――どうしてあのような法典をつくられたのか、その由来ですわ」
「また、今さらですね!陛下から直に、とっくにお聞きになられているのじゃありませんか?」
「ええ、お聞かせいただいてますわ。――今は、それぞれの法のもとに運営されている諸都市や地方、遠くひなの地にまで、王の威光を知らしめすこと。地方と都を一体にするために、なされたのだと聞いております」
「ふむ……」
 ザンメルクはうなずいた後、しばらく考えていた。「……他には?」
「私が聞き及んでおりますのは、大体以上申し上げたことですわ」ルイアナは首を振った。
「少し足りませんな。陛下も全てのお考えをお話しするには、時間が足りなかったのでしょう」
 ザンメルクは語りだした。

「…まず、以前のフメールでは――ある意味今もですが、諸都市がけっこうな部分で、独立して存在しています。リーダーとなってそれを率いる首長都市は、ここ三百年近くクスキオンに続いたためか、フメール連合国家全体としては安定しています。しかし、昔は諸都市の独立性が今以上に非常に強く、紛争も非常に多かった。
 ここメネト市も、クスキオンと激しく渡り合った過去がありました。今は、とりあえずのところ大人しくしている諸都市が多い。しかし、依然としてその内部では、王都とかけ離れた統治を行っていることもしばしば。たとえば、裁判は独自のやり方を貫ぬいていました。同じ罪でも、下される裁きが違う。都で裁いた罪人が、後で不服を訴え、クルト市で、軽い量刑に変えられたことをご存じですか?」
「ええ、確か三年ほど前ですわね。よく覚えております。王都の裁判所の面目が潰されたと、役人たちが騒いでおりましたから」
「ああいったことがあると……果たして、陛下がフメールを総べていると、本当に言い切れるのだろうかという事態になってしまいます。二十年前から、そのことをご憂慮されていたのです。そこで、王陛下が目を向けられたのが、他国で使われている法でした。
 私と、我が師カ・トカヌク様は、ラムビア・アレーン王国出身なのです。ラムビアでは、こちらとは法が違っていることに、目を向けられたのです」
「そのお話は、聞いておりません」
 興味を惹かれて、ルイアナは身を乗り出した。
「ラムビアは、族を非常に重んじます。昔は遊牧だけで生活してましたから、羊や山羊など、一家の財産を非常に大事にしています。子は成人していても、すぐには父の家を出ません。そのため、非常に家意識が強い。私の家もそうでした。父がとても権力を持っていて、言うことは絶対だった。そして、その一族や集団で決めた掟は絶対です。元々、非常に規則に対して厳しい感情を持っている民の国なのです」
「ラムビアには、あまり詳しくありませんの。…興味深いことですわ。遊牧民の末裔であるとは聞いていましたけれど、厳格な性格なのですね」
「そうです。ですから、五百年前に今の王朝の大体の基礎ができたのですが、その頃には、もう整然とした法が整備されていました。ラムビアの当時の王にちなんで、“コモロン大法典”と呼ばれるものです。コモロン大王が制定したその法は、今でも厳格に守られています。
ラムビアの国のしくみについて話しましょう。
王が直接任命した法務官たちが、各地に派遣され、法が守られているか非常に厳しく監視してます。王に属する法務官たちは、強い権力を持っているので、地方の権力者が何か反発しても、王の威光と、法典の神聖を盾にして、頑としてはねつけます。相手がどのような権力者であろうと、です」
 ルイアナの目は、生き生きと明るい光を宿していた。
 それ見て、ザンメルクはうなずいた。
「お分かりでしょう。今の王陛下の御世に足りないのは、そのような厳粛な、誰が見ても明らかである分かりやすい法と、それを従わせるだけの絶対の権力です。しかしながら、何故このフメールでそのようなしくみにならないのかというと…――」
「フメールは神々の祝福を受けた国ですわ」
 ルイアナが引き取った。「神々の威光が陛下の威光。それからはみ出ることはありません。そして…あなた方のお力によってつくられたセトメキオンの法典もまた、セトメキオンの偉大なるお力を後ろ盾にしたもの。…それを越えることはないのです」

 セトメキンは偉大なる法を司る神である。
 厳格な彼の性格は、罪人に絶対なる裁きを下すものとして、法にたずさわる人々などから、いにしえより崇められていた。
 その性質は、厳粛にして、果敢なものだと言われている。
 神々の戦争でも、ひときわ激しく、烈火のごとき戦いぶりを見せたと言う。
 セトメキオンの乗った戦車が、神々の戦いの行われた原を走った時、その後にはいっぺんの草も残らなかったという。

 ザンメルクは、セトメキオンの名を付すことは、必然だったと語った。
「…そのように苛烈なセトメキオンにあやかって、法典の初めには、はっきり記されています。この法典は偉大なるセトメキオンに捧げるものであり、また同時に、彼から授かりたまうものだと。……また、王宮の壁の、歴史を記す碑文に、既にこう書かれているはずです。王の夢の中にセトメキオンが立ち、この法典をつくることをお示しになったこと。また、王がセトメキオンの神殿にて、制定の記念に、空高く法典の一部を読み上げ、かの神にたてまつられたおりに、突然法典の文が輝き、まばゆく白くなったかと思うと、その炎が一瞬にして消えたこととが」
「……あら、誰かから聞いた覚えがありますわ。その記録のこと。いつの間にか、碑文に書かれていたものでしょう?」
「誰が書いたものやら」ザンメルクは首を振った。「…おそらく、王宮の書記長あたりが、書記に指示して書かせたものでしょう。箔をつけるにしても、もう少しそれらしい霊異にして欲しいものですが」
「まあ、それも一興ですわ」
 ルイアナは鈴のなるような声で笑った。「私がどんなに、そういう面白い記述が加えられるのを楽しみにしているか。それに、市民には、そういうお話が本当に耳によく染み入るみたいですのよ。無駄なお話とも思えません」
「いえ、私は…後世にそのような飾り立てられた記述ばかり残るのが、気にかかってしかたありません」
「事実と歴史の記述を同じにする努力を、書記たちがしているのを私は見たことがありません」
 ルイアナはあっさり言い切った。「むしろ、うがって読む楽しみを与えてくれるものとして、読むものだと思っていましたわ」
 ザンメルクは眉をしかめた。「カメフのように、ここにも淡々とした歴史書や博物誌をつくってくれる賢人がいたら、いいのですが」
「キッサリアの人々は、記録を残すのがお好きだそうですから、歴史を残すのは、彼らに任せればいいのじゃありません?」
 ルイアナの答えはあっさりしている。彼女は、書記たちの記述にそれほど興味がなかった。

 クスキオンで文字が読めるのは、ほぼ、書記をなりわいにしている人間と、神殿の一部の人間だけだった。ルイアナ自身、文字はほとんど読めなかった。読む必要がなかったからだ。
 彼女が記録を残して欲しいと思えば、書記を呼びよせて、書き留めさせるだけですんだ。
 王族や貴族は、読み書きできれば自慢するが、できなくてもどうということはない、というぐらいのものだった。


 ――その後、二人は大いに語らって、法の話から始まり、フメールの国の情勢や、他の国のしくみ、さらには大陸全体の情勢にまで話を広げて、時には応酬や質問を飛ばしていた。

(…まあ、お珍しい…。ルイアナ様があのように生き生きと話されているなんて。またとないお方に、出会えたのだわ…)
 カロンは部屋の隅で忍耐強く立ったまま、目を輝かせて話に興じるルイアナに、見をみはっていた。

 これまでの、優秀だが、決まりきった教えしか話さない頑固な教師たちは、ルイアナを退屈させただけだった。だが、ザンメルクの広い見聞にもとづく深く実践的な教えと、外国の知識は、ルイアナが求めてやまないものだった。
 そうして、ルイアナはメネト市に滞在する間、この師から学び、時に自らの考えを披露して、知を深めた。カロンは時々その側にいて、彼らの話に耳を傾けて見守っていた。


<< prev top next >>