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 そのあくる日、ルイアナは河に船を浮かべ、街を眺めに見に行くと行って、岸辺まで幾人かの召使いを連れて出た。

 カロンは供せず、館に残って仕事をしていた。
 ルイアナの好きな香(こう)を混ぜて、新しい香りを作ろうとしていたのだ。
 没香(もっこう)や麝香(じゃこう)、モルクス杉の枝が好きだから、それを混ぜ合わせて新しい香りが出来ないかと試行錯誤していた。
 香は稀少なものだから、慎重にせねばならない。
 そうしながら、都の館から運んできた装飾品などを広げ、整理する作業も続けていた。

「――ねえ、ご主人様はいつ帰って来られると言っていたかしら?どこまで行かれたって?」
 他の侍女たちの話し声が、壁を隔てた向こうから漏れ聞こえてきた。
 現れた侍女たちは、カロンの顔を見ると立ち止まった。
「…まだその仕事をしているの?のんびりでいいわね。向こう行きましょう」
 戻ろうとする彼女たちの姿を見て、前回の失敗を思い出したカロンは勇気を出して言った。
「…あの、待って。手伝ってほしいの。一人じゃ終わらないから」
 しかめ面で一人が振り向いた。「何言ってるの?あなたの仕事でしょう」
「あなたたちの仕事でもあるじゃない…。…おしゃべりしてるのなら、忙しいわけじゃないんでしょう」
「あんたよりは、忙しいと思うわ。のんびりした手つきで仕事して、だからいつも遅いんでしょう」
 カロンはぐっと悔しさをこらえた。確かに自分は必要以上に丁寧に仕事して、結局遅くしているかもしれない。
 だが、こうやって事毎に他の侍女たちから嫌味を言われる大きな原因が別にあることは分かっている。
「いいわよね。お気に入りは、そうやってのん気に仕事していても怒られないんだから」

 またその言葉だ。カロンは悔しさをこらえて、相手を見つめた。
 他の侍女たちは、贔屓されているカロンにあからさまに嫉妬している。自分が贔屓されていることはカロンも承知している。だけど、彼女たちが思うほど、まったく叱責されずに、気ままにのん気に仕事しているわけでないことは、大きな声で否定したかった。

「…だから、あなたたちがさぼってもいいの?殿下のためのお仕事なのよ」
 カロンは少し擦れた布を突き出した。「――これを繕って。殿下のみ装束よ」
「はあ?…大体、それなんなのよ?」
 侍女は受け取ろうともせず、カロンの手元の香へ目を向けた。
「ルイアナ様のお好きそうな香を調合しているわ」カロンは、せっかく休息に来ているのだから、さらにルイアナがリラックスできるようにしたいと思っていた。
「何?そんな大切なものを勝手にいじって、ねこばばするつもり?」
「そんな無駄なことしているから、仕事が余計遅くなるんじゃないの」と、侍女。
「ルイアナ様のお喜びになるように気を配るのが、私たちの仕事でしょう?」カロンは言った。
 そのために手を尽くしたいと、彼女たちは思わないのだろうか。
 ルイアナが欲しているものを知り、ルイアナの気分を損なうものを遠ざける、そのために、カロンは常にルイアナの視線の先や表情を観察していた。
 ルイアナが気に入ってくれているのは、その自分の努力あってものことだと、カロンは考えていた。彼女たちが思うように、ただ運の良さだけで贔屓されているとは思っていなかった。

 侍女たちは呆れたように笑った。
「はあ、すごい。あんたって、仕事を増やすのが本当にお得意ね。そのしわ寄せを食うのは誰だと思っているの?…こんな布、もっと綻びてから繕えばいいのよ。どうせとっかえひっかえ服を変えられるのだから、こんな擦れ分かりゃしないわよ」
 差し出した布を突っぱねたのを見て、カロンは怒りが湧いた。
 カロンが何か言いかける前に、侍女の一人が近寄って、勢いよく息を吹きかけた。
 そこにあった香の粉末が一面に舞い上がり、カロンは大きな悲鳴を上げた。息を吹いた侍女は笑った。
「――頑張れば!…行きましょう」
 彼女たちはくすくす笑いながら、どこかへおしゃべりしに消えてしまった。
 香はとても高価な貴重な物だ。カロンは急いで箒などを持ってきて、床につくばって吹き飛んだ粉を探した。石敷きの床の隙間まで全部さらってしまうと、カロンは情けない思いで集めた粉を見つめた。

「……あら、新しい香りね」
 夕刻、ルイアナは部屋でくつろぎながら、ふと部屋の隅で焚かれた香に目を向けた。「新しく調合したの?」
「はい」カロンは答えた。
 床に落ちた粉も使って、少しづつ試しに焚きながら香を合わせた。
 ルイアナは目を細め、それから微笑んだ。
「いい香りね。この前あなたが合わせたのは嫌いだけど、これは気に入ったわ」
「……本当ですか。…ようございました」

 カロンが退室して、貯蔵庫になっている部屋を横切っていると、扉のない戸口から話し声が聞こえた。
「――…気に入られてる奴はいいわよね。何やってもほめられるから」
「何?あいつのこと言ってるの?」
 聞いたような侍女たちの声が聞こえてくる。カロンは立ち止まった。
「余計なことにまで手を出そうとするから、こっちの苦労が増えるんじゃない」
「また。あんたそんなこと言って、どっちみちろくに働いてないくせに」
 笑ったように言う声と、
「そりゃね」やはり笑って答える声。「だって、どうせあいつがまん前に出張って、その後ろに隠されてるあたしらの姿なんて、見えやしないじゃない。苦労したって一緒よ」
「ほんとにそうよね。苦労のし甲斐なんてありゃしないわ」
 カロンは口を噛み締めてその場に立っていた。
「いっつも金魚の糞のようにお側についているけど、あいつ、元々田舎出の奴婢だったんでしょう?卑しい性分も分かる気がするわ」
「そうらしいわね。いつもご主人様に言われたまま、はいはい答えて、側にくっついているだけのくせに、自分はちゃんと考えてますって、あのおりこうぶった顔つきが我慢ならないわ。高価な香を触っていたこと、侍女頭に教えておけばよかったかしら」
「やめなさいよ。――殿下の"お気に入り"よ」
 ひそめたような笑い声は、ひどく耳についた。
 カロンが険しくなった目をさまよわせていると、廊下の向こうに立っていたセヌーンにかち合った。
 セヌーンは相変わらず淡白な顔つきで、手振りでついて来るようにうながした。


「――…ねえ、オステアン様たちが来るって、本当なの?」
 館の裏手へ行きながら、出し抜けに問われて、カロンは慌てて振り向いた。
「え?ええ…。多分。でも、ここに滞在する三月の間に来るかどうかは分からないと、殿下は仰っていたわ」
「知らなかったわ。誰も教えてくれなかったから」
 カロンは、そこでやっと昨日のルイアナとの会話を思い出した。
(あ……。…しまった……)
 セヌーンは、近侍にも関わらず、下の召使いたちから耳に挟んで遅まきに知ったのだろう。
「……ごめんなさい。つい忙しくて忘れていたわ」
 セヌーンはくるりと振り向いた。その手にはいつの間にか握られているものがある。
「――仕合ってくれる」
 カロンはうなずき、セヌーンが差し出した刃を潰した小刀を受け取った。

 セヌーンは護衛を主任務にしている。そして戦うために体を鍛えていた。
 同じ似姿兼護衛のカロンも、こうして人目につきにくい場所で、時々それに付き合っていた。
 もちろん、日々鍛錬に励んでいるセヌーンのように敏捷に動くことはできない。
 今日も打ち負かされて、カロンは肩で呼吸を整えながら座り込んだ。
 セヌーンは黙って小刀を拾い、立ち去り際に、カロンに一瞥と言葉を投げてよこした。
「…懸命になるのはいいわ。でも、大事なことを忘れないで」
 伝言すら忘れていたことを責めているのだろうか。
 同じ似姿の彼女とは、何かあれば、すぐ伝えあうという約束を、ずいぶん昔に交わしていた。
 まるで、浮き上がった自分を抑えられた気がして、カロンはうつむいた。

 他人と同じところを見るでもなく、自分なりの、必死の努力をしているつもりで、空振りばかりしていることが、無性にひどく情けなく思われてきた。
 殿下のためだと信じている。でも、みっともない失敗ばかりで、自分は本当のところ、ただ空を切って足掻いているだけの滑稽な人間なのだろうか。
 …あの侍女たちの笑う声を思い出した時、カロンは大きく顔をしかめた。
(……私…私のしてることは、間違ったことなの…?…やっぱり私は、“間抜けの”カロンのままなの…?)
 木立を縫って走り抜けた風が、冷たくカロンの顔を撫でて、髪をそよがせていった。


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