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 誰かが入って来た気配に気づき、部屋の奥の机でうつむいていた男が顔を上げた。 
「――はい、何か…?……あれ?君…」
 男は見慣れぬ人間に怪訝そうな顔をしてから、立ち上がって言った。
「…君って……失礼。そちらは、侍女でいらっしゃるのでは。ほら…あの、時々会うけど。ああ、この前も見たな…」
「ああ、あなたは…」
 カロンは同じように相手の顔に思い出すものがあって、礼をした。
「…裁定の場にいらしたお方ですね。…本日より、お側つきから、書記係りへ異動になりました。よろしくご指導お願いいたします」
 丁寧な辞儀をした侍女に、書記の男は目を丸くした。
「書記に?侍女が?…はあ、一体またどういう風の吹きまわしで」
「色々ございまして……」
「はあ…」
 かりにも貴人に仕える下々として、彼にもそれなりに、危うきに近寄らずといった心得があるものとみえた。
 彼は深くはたずねず、そういう命令を受けたのなら、それに従うまでと、理解のよさを示した。
「ああ、じゃあ、教えますけれども。…字は書ける?」
「いえ、全く心得がございません」
「だよね。……ああ、どうしようかな。私も色々することがあるので…あっちの、ほら、あそこで練習している人間がいるから、彼に教わってくれるかな」
「はい」
 カロンはその人間の側へ行き、また挨拶を繰り返した。
「――はい?…あなたが、書記に?」
 身なりを見て、侍女――それもお側つきの侍女だと知って、その男も怪訝そうな顔をしたが、こちらも忙しいのか、特に深くはたずねず、側の板を示した。
「それ、練習してください」
「これですか…?」
 板には、文字が大きく間隔を広げて一字一字書かれている。どうやら、初心者が覚えるためのものらしい。
 予想はしていたが、一瞥しても、さっぱり分からない、ということに、カロンは不安を覚えた。
 …ここを志願してしまったが、自分に勤まるのだろうか…?
 カロンは横の男にたずねた。
「これはどういう意味ですか?」
「まだ意味は知らなくていいよ。それを覚えたら大体の文字が覚えられるから。それを組み合わせて言葉を作っていくんだ」
「言葉を…」
 カロンはまじまじそれを見つめた。それにしても、やはりこれは棒や線だ。
 カロンは、先の尖った金属の棒を渡され、机の上に置かれていたまっさらな板を持たされ、それに書く練習をするように言われた。

 部屋には数人の人間がいて、ほとんどが、机に伏せって書きものをしていた。
 四方には、粘土板や巻物のつまった棚がある。そのため、粘土板の独特の匂いが部屋に充満していた。時々、それを整理している男が通り過ぎる他は、動く人間はなく、静かなところだった。

 カロンは大人しく、熱心に文字の練習をしていた。
 横の男は時々立ち上がって、これでいいでしょうか、と奥の男に、書いたものの仕上がりを見てもらっている。奥の男は、書記長、と呼ばれていたので、どうやらここの書記係りの長らしい。
「――…ああ、そうだ」
 しばらくして、突然書記長が作業をやめて顔を上げた。「――思いついた。ほら、彼女、学校に行ってもらおう」
「え?……あっ、間違えた!」
 カロンの隣にいた男は大きな悲鳴を上げてから、書記長を振り返った。「…まあいいや、後で削って直します。え?どこですって?」
「学校だよ。ほら、彼女にそこに行ってもらったらいいよね。そこなら教える人間がいるだろう」
「ああ、養成学校ですね。いいんじゃないですか」
 部屋にいた女が会話に加わり、賛同した。「建物が最近新しくなって、奇麗らしいですね。いいと思いますよ。私もあそこに通って基礎を覚えましたし」
「今、忙しくて教える暇がないからなあ」と、書記長。
「書記長がご指導なさったらいいじゃないですか」男が言う。
「私も裁判の議事録の修正で忙しいんだよ。君がやってくれるか?」
「ご冗談を」
 カロンの隣の男は肩をすくめて見せてから、カロンを振り返った。「だってね。よかったね、君」
「はあ…。……学校?」
 カロンは首を傾げたが、それがいい、と呟いた後は、みんな顔を伏せって作業に没頭してしまったので、それ以上のことは聞きずらかった。
 そのうち教えてもらえるかしら、とのん気に待ち構えていた彼女は、翌日、いきなりその場所へ放り込まれたのだった。


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