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 カロンの前には、大勢の生徒たちがいた。
 いずれも若く、集まるなり持参した荷物――といっても昼の軽食だけだが――をその辺において、それぞれに会話を始めている。
「まあ、こんなにたくさんの人が……」
 カロンは周りを見回し、驚いた。

 今朝、書記長から藪から棒に説明された限りでは、この近郊の若い者たちが書記になるための勉強をする学校が、このメネト市にはあり、ルイアナの館で働く書記係りたちも、この学校出身の人間が多いのだという。
 そして、場所を教えるので、そこにしばらく通ってほしい、と半ば放り出されるようにして送り出されたのだった。
 カロンはそんな建物があることも知らなかったので、ひっそりしたものだと思っていたのだが、案外繁盛していて、しかも、しっかりした作りの立派な建物だった。
 子供が多いが、中には成人も席に座っている。数人女が混じっているが、男の方が圧倒的に多かった。


 カロンも空いている席を見つけて、腰を下ろした。それから周囲を見回した。
 前方の広い空間には、大きな机があり、いくつも粘土板が積まれている。横の小さな木の箱には、先端の尖った棒が積まれている。とりたてて、他に物はない。
 カロンが周りの様子を観察していた時、思いがけず、一人の人物が声をかけてきた。

「――…あれ?お姉さん……。お館にいた人じゃねぇか?」
 カロンが驚いて振り向くと、そこにはなんと、見覚えのある少年……セントンがいた。
「まあ、あなた…。……セントン?」
「へえ。俺の名前を覚えてんのか」
 セントンは、そこで急に表情を変え、慌てて言った。
「…い、いや。すまねぇ。礼儀をどうにも知らねえもんだから。あんたみてぇな、上等の、侍女のお仕事をやってるって人にも、こういう話し方をしちまうんだ。…こういう場合の、作法にのっとった、なんとやらは、俺はよく分からねぇもんだから。気を悪くしたらすまんでよ、なあ」
「いいの。私は大した人間じゃないわ。…それにしても、どうして、私の顔を覚えているの?私は部屋の隅で立っていただけなのに」
 カロンはまだ驚いたままで言った。
 セントンは少し得意げに胸を張った。「俺、記憶力だけはいいもんだから」
 カロンは、こうした出会いに、今まで孤独だった心が少し慰められるような気がした。
「まあ、すごい。こういうことってあるかしら。……あの、よければ、隣に座ってくれないかしら。私、一人で来たから心細くて」
「いいよ。…なあ、どうして、お屋敷の侍女の人が、こんな学校に来てるんだ?ここ、書記をする人間が来るところだぜ」
「私、今度書記の仕事をするの」
「へえ」セントンは目を丸くした。「どうして?あんた、侍女だろ?」
「ちょっと訳があって…」
「へえ。よく分かんねぇな。お屋敷ってのは」
 セントンは、あの館には自分には知らない世界が広がっているに違いない、と思い込んでいたから、不思議な人事異動などについてくわしく知ろうとしなかった。
 今度はカロンのたずねる番だった。
「ねえ、どうしてあなた、こんなところにいるの?…確か、ゲオルグ家の仕事は、やめることにしたのよね」
 聞いても大丈夫だろうかと心配しながら、カロンはうかがうようにたずねた。
「ああ、クビんなった」
 セントンはあっさり答えた。しかし、表情に苦さが表れていた。「…するだろうな、とは言ったけど、ほんとにご免にしてくれやがった。俺もそれなりに、一生懸命汗水垂らして働いてきたのによ。俺は年数が短けぇから、ご免金だってもらえやしねぇ。薄情だよ、あのどけちの銭っこじじいは」
「まあ」
 田舎ものらしい乱暴な口調にびっくりしながら、カロンは、どこか浮き浮きするものを感じていた。

 ざっくばらんに、こうして年の近い者と話を交わすのは、そういえば何年ぶりだろうか。
 彼女は一目見た時から、このあけすけな少年セントンには、妙な気を遣わなくてもよい、という確信のような気持ちを抱いていた。
 そしてそれは、今まで館で気を張りっぱなしだった彼女にとって、とてもうれしいことだった。

「でも、それが、どうしてここにいるの…?」
「リンデルさんが、今、俺の面倒を見てくれてるんだ」
 セントンは言った。「リンデルさんは――あのお裁きの時に、代表を買って出てくれた、体のでけぇ人だ。俺がご免されて、困るだろうって思って、面倒を見るって言ってくれたんだ」
「まあ、なんていい人なの」
「そうだろ。なんてったって、いい人だぜ。俺をな、将来、きちんとした人間になる男だって言ってくれてよ、この学校に送り出してくれたんだ」
 セントンは真面目な顔で言った。
「あの人、奥さんと子どもを早い時分に亡くしてるんだ。それで、家が広くてしょうがねぇから、来いってさ。俺、ほんとにうれしかったよ。そんで、まあ、なんか知んねぇけど、俺のこと気に入ったって言うんだ。俺は将来絶対大物になるから、金も生活も、全部面倒見てやる。だから、役人になれって言うんだ。あんないい人があるかい」
「役人?あなた、役人になるの?」
「そうさ」
 セントンの目は真剣な光を帯びた。
「…俺、あの日、あの偉いお人に会って、ようやく分かったよ。いい決まりごとも悪い決まりごとも、俺たちはちゃんと知らねぇ。でも、法ってやつは、きちんと知ってりゃ、すごくいい味方になるんだって。そんで、知らねぇのをいいことに、あのどけちじじいみたいな連中は、好き勝手しちゃってくれてんだ。俺は、ちゃんと勉強をする。そんで、世の中の物事ってやつをよっく知って、立派な裁判官になるんだ」
「裁判官?」
 カロンは驚いた。役人の中でもエリートの部類だ。
「そうだ。俺、あの王女さまみたいになりたいよ」
 セントンは照れ臭そうに笑った。「…見たかよ、あのお裁き?かっこよかったなあ、きっぱりすっぱり、決めてくれちゃってよ。俺も、あんな風に、法ってやつをよっく覚えて、人を裁けたらいいなあ、なんて思ってんだ」
 セントンは心配そうにカロンに目をやった。
「…無理だって思うか、あんた?家の連中は、そんな夢は絶対無理だって、はなから馬鹿にしやがったもんでよ。俺だって、無茶は百も承知さ」
「いいえ、そんなことないわ。素晴らしいことよ」
 カロンは急いで言った。「…それに、あのお方は、本当にすぐれていて、素晴らしいもの。あこがれる気持ちも分かるわ」
「そっか、分かってくれるかよ」セントンはうれしそうに歯を見せて、無邪気に笑った。「…よかったなあ!俺、やる気がわいてきたよ」

 そうこうしているうちに、教師が部屋に入って来た。
 まだ若い男だったが、いかにも真面目くさった顔つきが教師然としていた。
 彼は手伝いの人間とともに、教壇の上に積まれていた板を配り、棒を配りして、生徒たちに書くための準備をさせた。
 それから、カロン含む新顔がいくつかあるのに気づき、それぞれに挨拶をさせた後、慣れた人間たちに、先輩として時々教えるよう指示していた。
「俺、教えてやるよ。先輩だから」
 横のセントンが偉ぶった風に言うと、カロンは思わず笑って、「お願いします、先生」と頭を下げた。


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