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 まず、すべての文字を書く練習をさせられた。何度も線を書き、書いては消す。
 それが終わると、書きやすく、またもっとも実用的でもある数字から学習する。その後は、父、母、家、麦など。よく使うものの名前を覚えていく。
 それから、神さまの名前。神々は種類が多く、あらゆる記録に頻出してくるので、最初に勉強されられる。数が多いだけでなく、冠詞(かんむりことば)と教師が呼ぶものを、頭につけねばならなかった。

「――…ねえ、どうしてこれじゃだめなの?」
 カロンはつまずくと、横のセントンに板を見せた。
「ああ?…ああ、それじゃだめだ。その冠は、男の神様につけるやつだろ?リアンナは女の神様じゃねぇか。こっちの冠だよ」
 セントンは二本線を足して、女性名詞につく冠詞を加えた。「ほら、これでいい」
「ええ…?よく分からないわ」
「決まりなんだよ、覚えようぜ」
「――ねえ、これで合ってるのかしら」
「おい、俺が教えた後で別の奴に聞くなよ。失礼だろ」
「…セントン、これじゃだめだって。神様用の、女の冠詞は、こっちだそうよ」
「ああ?…そうなのか…。俺、全部間違って書いてたなあ」
「よかったわ。私が質問しておいて」
「生徒のくせに生意気だなあ」
 時々茶々を入れながら、学べるというのは楽しかった。カロンはぐんぐん吸収していった。
 はじめは、文字というものに慣れるのに大分時間がかかったが、慣れてしまえば、文字を組み合わせて単語を使うのも、それを文に見つけて読み上げる作業も、とても楽しかった。
 そうして、時々学校に通って教わりながら、少しづつ、書記係りたちの部屋の仕事に従事していった。

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「――ねえ、カロン君。これ読めるようになった?」
 ある日、書記長がそう板を見せてきたので、カロンは書写作業を中断し、書記長の机へ近寄った。
 そして、目を細めて、差し出された粘土板をのぞきこんだ。
 小さな字がびっしり書き込まれていて、一瞬目まいがしそうになった。が、いくらか勉強の進んだカロンは、それをどこで区切ればよいのか知っている。
 単語ごとに区切って、一つひとつ読めばこわくないわ、と彼女はおのれに言い聞かせた。
「…仔山羊 100頭、子豚、60頭、ヒヨコ豆 1袋、オリーブ油 2ガロン、ブダイ 50尾、甘エビ、ホ…ネ貝、鮭 各100尾、茴香(ういきょう)、薄荷(はっか)、ク…クミン、コリアンダー 各2セロン。イチジク、1袋。辛口葡萄酒 10樽、甘口葡萄酒 10樽、パッテカ産洋梨 1ガロン……」
 カロンが次々読み上げると、書記長は感心したように頭を振った。
「――さすが!もうそれだけ読めるようになるとは。大したものだ、カロン君!」
「…あの、君はつけなくても、よろしいと思うんですが」
「いやあ、でも、元侍女だし」
「しかもお側つき」
「となれば、我らの敬意も見せねば」
 周囲の書記たちは連携のよさを見せて言葉を重ねた。

 よく分からないが、ずっと机を囲んで同じ部屋で仕事をしているせいか、ここの書記係りたちは仲がよかった。そして、黙々作業をしていることが多く、大体において穏やかな空気があった。
 いつも誰かの悪口で盛り上がっている侍女部屋とは大違い、と思いながら、カロンは彼らをながめた。

「なんだが、私だけ、まだなじんでいないみたいで……」
「え?だって、君、腰かけに来たんじゃないの?」書記長がびっくりした声を出した。
「どうせすぐ侍女に戻るんでしょ」別の女書記も追随する。
「またお高くとまって、フン!とか鼻息荒くして、私たちの側を通り過ぎるんでしょ」
「なんで彼女たちって、顎を上げて、ああいう目で人を見ないとすまないんですかねー」
「まあ、一番大事な仕事といっても、過言ではないけどさあ。お側つきの侍女なんてね、特にね…。にしたってねえ」
 一つ不満が漏れると、それまで黙々作業に没頭していた書記たちの間から、ため息とともに日ごろのうっぷんが吐き出されていった。
「この前も、部屋の隅で筆記してたらさ、急にびっくりした顔でこっち見て止まったんだよ。『…なんでそんなところにいるのよ!びっくりするでしょ、何か言いないさいよ!』って…。いや、仕事中だから集中してたんですけども」
「分かるわ…!彼女たちって、暇な時でも、忙しそうにしてるくせに、ほんとに忙しいこっちの仕事中に、平気で話しかけてくるしね」
「そうそう!倉庫の出入れ帳はもう大変だった…!『もう書いた?もう書いた?もう持ち出していいわよね?うそでしょ、まだなの!?早くしてよ!』って。…そんなすぐ書けないよ」
「我々を置物だと思ってるフシがあるよね」
「君も部屋の隅で仕事中に、け飛ばされないように気をつけるんだよ、カロン君」
 書記たちは思い思いにしゃべっている。
 …まあ、悪口で盛り上がるのは、どこも同じなのかもしれない。カロンとしては複雑な思いにかられる光景だ。
「――…あの、じゃあ、学校がありますので。行って参ります…」
「行ってらっしゃい!」
「…君はすごく上達してるよ!…今の発言は内密に!」
 書記たちは慌てて首を巡らして、気を悪くしないでくれという風に、手を振った。
 カロンはあいまいに微笑んでから、その場を後にした。



「――…セントン?何しているの?」
 カロンは、学校に到着して教室に入りかけたところで、廊下の柱の陰に立っているセントンに気がついた。
「おお、いい塩梅に来たじゃねぇの」
 セントンは振り向いて、柱を指して見せた。「…ほれ、見なよ。ここんとこ」
 カロンが近づいてよく見ると、柱にはうっすら文字が刻みこまれていた。
「……おう…のむす…め…」
 覚えたばかりの知識を動員して、読んでいくと、それにはこんなことが書かれているらしかった。

 “…トパス王の女(むすめ)、リアンナの幸いを受けたまひし者、
  クスキオンの第一王女ルイアナが、
  ここメネト市に、書記養成学校を、神アッセドに、かしこみて、奉り、祝いて、建立す”

 建立した日付は、二年ほど前のものだ。建て替えられたばかりの奇麗な校舎だと感じていたが、その時寄進されていたのだ。
「……まあ」
 こんなところにも、殿下の御名によって、行われたことがあるのだわ、と彼女は感心してしまった。
 そして今、そのありがたい行いを享受している。その奇遇に感じ入っている側で、彼女は信じられないものを目端の隅にとらえた。
「……え?…え!?…――ちょっと、何してるの、セントン!」
 慌ててその腕を引っ張れば、セントンは、笑って柱を見せた。
 おそらく、粘土板用の筆で無理に書いたものだろう、細く引っ掻くような線がそこにできていた。

 “…どんな女神より美しい娘 アンネス”

「……まあ…!」カロンは呆れたため息をついた。「これ…」
「『〜よりも』、って言葉、この前書き方教わっただろ。どうだ、使いこなすのが早いだろ、俺?この記念のひぶん…?とやらを見てたら、俺も何か、残したくなったんだ。てぇした出来だろ?」
「何言ってるの!」カロンは猛然と言った。「…こんな罰あたりな文、早く消してしまって。女神さまが怒るに決まってるじゃない!」
 しかし、引っ掻き傷のような文字は、消そうと思って消せるものではない。もっと深く削らねば、もう消えないだろう。
「なに、まあ、大丈夫だろ。そのうち埃か砂でも詰まって、埋まってしまって、見えなくなるに違ぇねえ。いいだろ、記念さ」
 セントンは無責任に笑っていた。
 隣でカロンは、呆れ顔でそれをながめていた。
 …落書きを見てしまったことで、どこか、変に共犯めいた連帯感が彼との間に生まれてしまった。
 短な学校生活の中だったが、カロンはこの出来事を、以降も何故か強く心に留めていた。


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