<< prev top next >>


 学校から帰って来て、書記部屋に戻ろうとしていた時、カロンはセヌーンに出会った。
「あ……」
 お側つきを離れてから、じっくり話す暇もなくこれまで来ていた。カロンが、思わず立ち止まって相手を見つめていると、
「――来て」
 セヌーンは迷いなく腕をとり、歩きだした。

 少し廊下を進み、あまり人通りのないところまで行った時、カロンは声をかけた。
「――…ねえ、セヌーン。もういいでしょう」
 カロンの声に歩みを止め、セヌーンは振り返った。
 いつもどおり落ち着いた灰青色の瞳が、まっすぐこちらに据えられる。
「何か話があるのね…?」
「殿下のことよ」
 カロンは顔を引き締めた。ぴりりと胸に緊張が走る。「…何かあったの…?」
「――前に、私がお伴をして、外に出られた時のことよ」
 カロンはさらに真剣な顔になった。「…ええ、覚えているわ。殿下のご様子が、帰られた時、少しおかしかったわ」
「気づいていたのね。……あの時……不意のことがあったの。…少し、不測の事態が起こってしまって。殿下はそれで――…」
「え?…どういうこと?」
 セヌーンにしては明瞭でない言い方に、カロンが身を寄せた時だった。
「――何をしているの?」
 ぴんと張り詰めた声に、カロンたちは体をこわばらせた。
 後ろへ顔を向けると、怜悧な眼ざしの侍女頭がこちらを見て立っていた。
「あらあらあら…」
 侍女頭は鷹揚な口ぶりで言った。「……確か、そちらの娘さんは、先日お側つきから離れたのじゃなかったかしらね…?気のせいかしら。書記の娘が、お側つきの侍女と、こんなところで立ち話かしら」
 本来、召使いたちが互いの職分を超えて話をすることは、そこまで厳しく見とがめられていない。
 しかし、最近のカロンは違った。侍女頭の許可なく、ルイアナはもちろん、お側つきの侍女に寄るのさえ、制限されていたのだ。
 カロンは大人しくこうべを下げた。
「……つい、忘れておりました。申し訳ありません」
「いつまでもお側つきのつもりでいないでちょうだい」
 ぴしゃりと言って、侍女頭はセヌーンを見た。「あなたも。お友達がいなきゃ、歩けもしない子どもとは違うでしょう。そんなことしている暇があったら、自分の仕事があるのでないの?」
「――はい。申し訳ありません」
 セヌーンは大人しく礼をして、ちらりとカロンに視線をやってから、その場を離れた。
 カロンが思わずその後ろを見送っていると、
「…何をしているの?早く仕事に戻って」
 侍女頭の声に急かされ、慌ててその場を後にした。

  -------------

 書記係りの部屋に戻った時、部屋には見知らぬ男がいた。

「――おや?」
 その男が部屋に入って来たカロンを振り返った。
 …いや、見知らぬ男ではない。この別荘で、何度も見かけたことのある顔だ。
 カロンが辞儀をして挨拶すると、その丁寧な仕草に首を傾げ、男は向かい合せの書記長を振り返った。
「……年のせいかな。近頃人の顔を見てもピンとこない。書記の子に、こんな子いたかな…?」
「ほら、あれですよ。……彼女、元お側つきの侍女ですよ」
 書記長は、さもおそろしい秘密を打ち明けるのだとばかりに、ここぞとひそめた声で知らせた。…残念ながら、カロンのところにまでその声はよく届いていたが。
「えっ?なんでお側つきをやってた子が、こんなところに下って来るの?」
 男が大声でけげんそうに聞き返したので、書記長は慌てて手を振った。
「……声が大きい…!……こんなところって、その言い草はなんですか?マヌジーフ」
 男――マヌジーフはもう一度カロンを振り返って、よく眺めた。
「…ああ、そうだ。けっこう昔からいる子だな。――…ところで、そんな話をしに来たんじゃないぞ。私の探している資料はどこだ?」
「今、司書が探してますよ。もうしばらくお待ちください」
 マヌジーフは不機嫌そうになって、普段カロンが使っている椅子に腰を下ろした。
「資料をきちんと整理しておかないから、取り出すのに時間がかかるんじゃないのかね?」
「整理はしてますよ。資料が多すぎるのに、部屋が狭すぎるんです。…もう少し広い部屋をくださるべきですよ」
「私でなく、殿下にお願いしたまえ」
 書記長は芝居がかったため息をついた。「…代官さまの権限など、なんのためにあるのか分かりゃしませんな」
「君は人をなんだと思っているんだ」

 マヌジーフは、代官と呼ばれ――正式な役職名は長ったらしかったので、みんなそう呼んでいた――ルイアナが不在の間、このメネト市の領地管理を行っている男だった。
 王宮で長年働いていた経歴があり、法にも明るく、その有能さを買われてきていた。
 ルイアナが都を離れてここに戻って来る、毎年のこの時期には、不在時の報告を行ったり、ルイアナにつき従って領地を見回ったりなどしていた。

「一応お伺いしますがね、そんな資料、何に使うんですか?この地方の古い裁判記録だなんて。カビやらで、読めたもんじゃない粘土板もありますよ」
「それはきっと、管理者の保存状態がいかんのだな。――何、今日は殿下に侍って、かつての師であり友である、ザンメルク殿を訪問いたすのだよ。…ああ、そうだ。君のところの書記を、一人貸してくれ。筆記が必要になるかもしれん」
「ザンメルク?……ああ、噂の…賢者殿でしたか」
 カロンが驚いて、思わず大きく身動きしたのに気づき、マヌジーフが振り返った。
「…どうかしたかね?君。そんなに驚いた顔をして」
「……あの、彼女の椅子がね、そこなんですよね。あなたの腰かけてる、そこ」
 書記長は言いにくそうな顔で、だがはっきりした声で告げた。
「…ああ、それはすまなかった。どうぞ座ってくれたまえ。帰ってきたばかりで疲れているだろうに、すまないな」
「あ、いいえ…!そんな、どうぞ、そのままで…」
 マヌジーフの方が上位者なのは明らかだ。カロンが固辞すると、マヌジーフはまた腰を下ろした。
 彼は冗談めかして、カロンに笑ってみせた。
「はは、書記係りの古ぼけた椅子は気に入らんらしいな。せっかくなので私が座っておくよ」
「椅子はいいんですけどね、棚がね…。老朽化してるんですよね」書記長がぼそりと呟く。
「君は、隙あらば備品を要求するな。だから、殿下に申し上げろと言っているだろう」
「いやあ…。管理を任されているのは、あなた様ですから…」
 書記長は、そこでこわばったカロンの表情に気づいて、顔を向けた。「――カロン君?どうかした?」
「あ、あの……。さきほどのお話…」
 カロンは、じっとマヌジーフの顔を見ていた。
「…殿下に随行されて、ザンメルク殿のご自宅まで行かれるということですけど…。――その筆記に、私を連れて行っていただけませんか」
 二人は少し驚いた顔をした。
 なぜなら、カロンがあまりにも真剣な顔をして頼み込んだからだった。
「…まあ、誰でもいいんだが…」
 マヌジーフは書記長を見た。「――筆記はできるのか?」
「できますよ、彼女は」
 書記長は、やや誇らしげに胸を張った。「いやあ、最初は、苦戦していましたがね。すでに二月ほど教え込みましたが、なかなか覚えがよろしい。素直ですしね。まあ、難解な長文はまだ難しいでしょうが」
「速記は?」
「あれは、私しかできませんよ」
 書記長は少し腹立たしげな顔になった。「私だって、自分で苦労して苦労して覚えたのですから、人に教えられません。まあ、普通程度の会話を、ゆっくり書く分には、彼女でも大丈夫でしょう。これも勉強になりますし。――カロン君、難しい言葉は、聞いたまま書き留めて、帰ってから整理すればいいから。とりあえず行っておいで」
 あっけらかんと許可をもらい、カロンは、
「……ありがとうございます」
 深々と礼をして返した。


<< prev top next >>