<< prev top next >>


「――そっちの資料はどうだ?」
「これですか?五年前の、広場で起こった平民らの闘争についての資料ですね」
「そうだ、マラダーム君。この裁判における判事の意見は注目に値するぞ」
 ザンメルクは渡された粘土板を手に取りながら、それをよこした年下の男に向かってにやっと笑った。
「…しかし、君はやはり抜け目ないな。今日の活発な議論に、これら過去の裁判記録がよい呼び水になると分かっていたようだ」

 ――ザンメルクの家にて、二人は周囲をいくつもの粘土板に囲まれながら、さきほどから活発に話し合っているところだった。
 粘土板は、過去の裁判記録や法典、法律にかかわる布告などで、マラダームが部下に抱えさせて持参したものだった。
 マラダームは肩をすくめた。
「…確か、二年ほどでしたか。――私たちがどちらとも王宮にいたのは、短い期間でした。先生のお教えに触れられたのは幸運でした。こうして抜け目ない男になれた」
「ふぅむ……」
 ザンメルクは板に目を走らせたまま答えた。「それは違うぞ。君は昔から抜け目なかった」
「――生来のものでしょうね」
 優雅にお茶を飲んでいたルイアナが、口を出した。
 ルイアナはそこで後ろから伸びてきた給仕の手に目を向け、そこにいた少女にちらりとほほ笑んだ。


 少女――カロンは、この邸宅で主人に久しぶりに相対した時にも投げられたその視線に、再び感動を覚えて、思わず手を止めた。

(……ああ、よかった…!書記を志願して。…必要とされる職でよかった…!)
 ルイアナが提案したこの集まりは、テーマに沿っておのおのが意見を出し合い、議論を戦わせる場だった。今日が初めてではないらしい。
 いつの間にかただの世間話になっていることもあったが、政治に関する有意義な意見も出る。
 カロンは、三人がこうして議論して出た意見のうち、書き留めておきたい重要なことを筆記するはずだった。

 が、ルイアナが突然お茶を飲みたいと言い出し、急きょお茶とお菓子が用意された。
 そして、ルイアナがいつの間にか連れて来た侍女を表に出してしまっていたので、何故かもう側つきでないはずのカロンが給仕をすることになったのだった。
 二人が熱心に資料をあさっている横で、ルイアナはこうしてのんびりとかまえてそれを眺めてしまっている。
 今回、法律の仕組みについて調べ、議論しようと提案したのはルイアナだったが、一番関心ない風でさえあった。

 笑ったルイアナの目には茶目っ気があった。
(よくもぐりこんだわね)
 とでも言いたげな目だった。

「――…私は、やはりおしまいには、ラムビアの法典が特にすぐれているとの結論に辿り着きますの」
 しばし時間が経った後で、ルイアナはやはり優雅に言って、二人の男の目を引いた。
「ん…。はい」
 それはさきほどもルイアナが発言したばかりだったので、とりあえずマラダームは相槌を打つだけにとどめた。
「…でも、そこから発展させるべき、新しい法典の仕組み、その整備の仕方については、全然考えが進みませんの」
「我々が取り組むべきにして、大いに困難な課題でございますな」
 マラダームはそつなく相槌を打った。
「…そこで、この雑然とした考えをまとめるために、少しお庭を散策させていただきたいと思いますの。新鮮な空気の中では、よい考えも浮かぶものでしょうから」
 マラダームが唐突な転換に首をひねると、
「――ああ、どうぞ。そこからお出になれますよ」
 実にあっさりした口調で、ザンメルクが向こうの木の扉を指した。
 下女に導かせさせようともしない、ぞんざいとも言える態度だったが、ルイアナは立ちあがって、脇のカロンの手をとりながら歩き出した。
「――では、ごめんなさいね。すぐ戻りましてよ」
 二人が庭に出るところで、目を見かわしてくすくす笑っているのに気づき、マラダームはかつての師を振り返った。

「…どうです、あれ。一体なんなんでしょうね?婦人同士の、あの奇妙なまでの親しさといったら」
「親しい友とはああしたものだよ」
 資料に集中しているザンメルクの答えはなおあっさりしている。彼は大きな声を上げた。
「――む!あったぞ、ここに。あの判事の、こしゃくなる戯言が!」
「…友…友、ですか……」
 しかし、友というより主従と呼ぶべきだが、とでも言いだけな顔のマラダームに対し、
「友情は身分の上下などに分かたれるものではない」
 断言した後で、ザンメルクはふと思いついたように顔を上げた。
「――…そう言えば、やけに遅いようだな。今一組の親しい友人同士は…」
「は?なんですって」
 マラダームはそこで思い出した。
「…そういえば、午後から来客があるとさきほどおっしゃっていましたが…。遅いですな。まだいらっしゃらないとは」
「道に迷っているのかもしれん」
「しかし、いいのですか。このような堅苦しい話の場に、お客人など招かれて。遠方より来られた、高貴な身分の方だとおうかがいしましたが…」
「なあに、今のところ全然堅苦しいところまで話がいっておらんでな。珍しく、うわの空の姫君のおかげで」
 また軽々しい口ぶりの師に、一瞬顔をしかめて見せてから、マラダームは言った。
「お珍しいことです。いつもは隙のない振る舞いをしていらっしゃるあの方が」
「そうかね?時々は、年相応の振舞い方をなされるようだ。それがふさわしい。あまり、我々が押しつけてもいかん。いくらやんごとない身と言っても、まだ少女のうちに、大人の男顔負けのそつない振る舞いをすることを覚えさせては、あまりに気の毒だ」
 それを聞き、マラダームは不思議そうな顔をした。
 見かけは淡々としているのに、もの柔らかい言葉がザンメルクの口から出たことが意外だったのだ。しかし…、と彼はすぐ自分の気持ちを改めた。

 そうだ、確かにルイアナは王女として申し分ないが、少女には変わりない。
 最近は周りの要求が高くなり過ぎているようにも思える。ルイアナがそれをこなしてしまうからだ。
 酷といえば酷な話だ。
 彼自身そうした気持ちになることはあったが、引退して、世間に対してどこかそっけなさすらみせるザンメルクが言うと、重々しい言葉に思えた。
 あまりに芯のしっかりした、威厳のある姿につい忘れがちになるが、ルイアナはまだ十五なのだ。
 まるで大人の貴婦人のように、あらゆる責務を押しつけて仰いでいるが、マラダームがあまり見ようとしていないだけで、そこには幼さも見えないといったら偽りになる。

「――…確かに、まだうら若い乙女でいらっしゃるが…」
「ならそのように仰ぐべきだな。――お前、まだ王宮に未練はあるか?」
 マラダームは真顔で向き直った。
「…突然なんです?」
「まだ未練があるようなら、あの姫君に道をつくっていただくのもいいだろう。あのお方の力なら、もう一度お前を王宮の上級官人の一つにつけることぐらいはできるだろう。後はお前次第だが。お前の力量なら、もう一度上を目指せるだろう。…目指すつもりかね?」 
「先生、あまりからかうのはおやめください」
 マラダームはかぶりを振った。
「…この領地の代官という職は、充実し、足りぬものなどありません。私にとっては過ぎたるものですよ。むしろ、王宮から一度転がり落ちた私は、あの方に拾い上げていただいた今の幸運に感謝すべきというもの。私には、今のところあの場に戻るつもりはありませんので」
「ふぅーむ、今のところ、な…。」
「ちょっと、もう。勘弁してくださいよ」
 ザンメルクは、もう引退もし、周囲や起こる事変をそっけなく突き放しているようで、今でも油断なく周りに目を光らせているのだ。
 マラダームは王女を頼りすぎていた自分の浅い考えを見られたようで、少し冷やりとした。
 しかし、世俗に無関心な態度であるものの、やはり賢者とよばれるにふさわしいだけの洞察力は健在のようだ。彼は王女に明察な知見をさずけてくれるだろう。
 マラダームはザンメルクを尊敬していたので、そのことに感謝していた。



「……あの…」
 そこで、下女の女が申し訳なさそうな笑みを浮かべて、ザンメルクに寄った。
「――取り次いでいただきたいと、お客様が。お二人お見えです。お約束に遅くなり、申し訳ないとおっしゃっておいでです」
「おお、そうか。やっと来たな」
 ザンメルクは粘土板を机に戻し、手を振った。「――すぐお招きしてくれ」


<< prev top next >>