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「……あの、びっくりされました?」
「ええ、とても」
 ルイアナはカロンの問いかけに微笑んで答えた。
 狭い中庭には、オリーブの木が植えられていた。その側に立ち止まり二人は話した。

「書記になったのは侍女頭から聞いていたわ。どう?面白い仕事かしら」
「はい。書記長も、他の書記もとても親切です。みんな、いつも黙って書き物をしているんですけど、時々は冗談も言ったりなんかして、それで書き間違っちゃって、笑ったり…。言葉を覚えるのも楽しくて。あと、異国の本もたくさん読めるんですよ!書記長が、勉強のために自由に読んでいいと仰って、いつでも読めるんです。すごいんです、殿下」
「あら、私が思っていた以上にうまくやっているのね。――聞かせてちょうだい」
 カロンは書記部屋の様子を話した。
 長い間離れていたことが嘘のように、語り合いは楽しく、時間を忘れるほど二人は熱中していた。

「――…それで、書記の仕事を利用して、とうとう私のところに再登場したわけね。見事よ、カロン」
 ルイアナがそう言うと、カロンは少し照れた。
「…まあ、そんな…。よかったです。いつも書記は、呼びつけられればお側に控えて仕事をしていますし、その割にあまり侍女頭の干渉も受けない仕事ですし…私にぴったりだと思ったんです」

 館において、厨房やお針子など、女たちのする仕事ならば、侍女頭はおおかた把握して管理している。
 しかし、書記たちは、侍女頭にとっても管理外の職だった。あまり関心を払われないのだ。

(――…それに、それにもし、また侍女に戻ることができて、私が書記の仕事を覚えていたら、とっても役に立つと思ったから…)

 ルイアナは書き留めたいことができると、書記を呼びつける。
 その間の時間がかかって煩わしいと、最近こぼしていたし、異国の本にも関心を示していた。
 これまでは異国人に直接話を聞いていたが、読み書きできる人間が側にいれば、書物からもっとたくさんの異国の知識を得ることができるだろう。煩わしさも減る。

(だから、もっと、もっとお役に立てるように――修行するのだわ。そうよ、だからきっと我慢できた)
 きっちりそのように考えていたわけではないが、配属先を聞かれた時に、カロンがとっさに書記と答えたのは、多分そんなような考えからきていた。

「ありがとう。あなたが書記を選んだのは、きっと私のためにもしてくれたのよね。カロン」
 カロンはかけられた言葉にはっとして、感動してかぶりを振った。
「……い、いいえ!お礼など…」
「私もね、あの日侍女頭とけんかをしてしまった後で、色々考えたのだけど、少しわがままが過ぎていたような気がするわ」
 ルイアナは言った。
「…もちろん、わがままであれるのは王女の私の特権で当然のことでしょう。でもね、すこしひいきしがちなところがあるのは、前々から自分でも感じていたのよね。それでまあ、少し反省して、最近は公平につとめているつもりよ。…上の人間として、我を通すのがその特権なら、公平さを示すのもそのつとめなのよね」
 ルイアナはオリーブの木に寄り、そこでちらりと屋内へ通じる扉の方を見やってから、声を落とした。

「――ねえ、カロン。それでね……」
「はい、なんでしょう?ルイアナさま」
 内緒話の気配を感じ取り、カロンは少しどきどきしながら近寄った。
「…あのね、二月前に、セヌーンと私が出かけたことがあったでしょう」
「あの日のことですね?」
 カロンはすぐに察した。
「私が侍女頭に見破られてしまった日の…。あの時、少しご様子が変でしたけど、外で何かあったんですか?」
「さすがね、カロン。私の顔色だけでわかってしまうのね」
 ルイアナは少し顎を上げた。
「でも、何があったかまでは分からないでしょう?…ええ、少し、変わったことがあったのよ。…あのね…」

 カロンは、少し妙だ、と感じて首をひねった。
 ルイアナはいつも迷いなくスラスラと話す。しかし、今はどこか躊躇しているようだ。何故すぐに切り出さないのだろう?
 よく見ると、その瞳はきらきら輝いていたし、心の内に何か考えがあるように、左右によく動いている。
 そしてようやく切り出した。

「――私、あの日外出したことで、侍女頭からそれはもうこってり怒られたわ…。身代わりのことだけじゃなくて、伴一人だけの外出なんて、危険極まりない、浅はかにもほどがあるって。…そうよ、実際に危険は起こったもの。侍女頭の言ったとおりだわ」
 カロンはぎょっとした。
「――…あの日、セヌーンを連れて街に下りて、あまり治安のよくない区まで行ったわ。そして、目的の骨董商を出てすぐ、物盗りが出たの。数人のゴロツキが。セヌーンがすぐ対処しようとしたけど、人数が多かったわ。囲まれて、連れ去られかけたの。――待って、カロン。今悲鳴をあげちゃ駄目、マヌジーフたちが飛んできてしまうわ」
 ルイアナは蒼ざめたカロンの口が開きかけたのを、すばやく押えた。
「聞いてちょうだい、その時よ。――あの方が現れたのは。颯爽と路地の向こうから駆けつけてくれたわ。彼は狼藉者たちの無礼をとがめて、ほとんど一瞬の間に彼らを叩きのめしてしまったの。…ああ」
 ルイアナの頬はほんのり赤みがさし、瞳には潤いがあった。
「――本当に大した殿方だったわ!貴族はたくさん知っているけど、ああいう立派な振る舞いをする人は見たことがなかったわ。…切れ長の薄い灰色の瞳に、栗色の髪。身は細かったけれど、力はたいへんなものよ。ああ、普段私を護衛している男たちが、どれだけ心細いか知れるというものだったわ。…ねえ、カロン。あなたにも見せてあげたかったわ」
 カロンはしばらく唖然としていた。
(――…これは、このご様子は……)

 言うまでもなかった。
 …まさか、恋されてしまった…?

「…い、いけません、殿下…。そんなどこの馬の骨とも知れぬ流れ者に…感動を覚えるなんて…」
 カロンは急いで言った。
 しかし、主人の心に水を差さないように、まだ控えめにしていた。
「まあ、カロン。そう言うだろうと思っていたわ。でもね、彼はおそらく貴族よ。それは間違いないわ。それに、振る舞い方が本当に立派だったわ。あの方が助けて、そのあと送って下さらなったら、私本当にどうなっていたか分からなかったわ。助け出した後に、声をかけてくださった時の、あの調子、あの優しい言葉…!」
 ルイアナは染まった頬に手を置いた。「…なんて素敵なの」
「………」
 カロンは呆然とその様子を見つめていた。しかし……
 
 ずっとルイアナに仕えてきたが、こんな風に彼女が可憐に、そして素直に感情を露わにしているのを見たのは初めてだった。

(…なんて…なんてお可愛らしいんだろう…)

 まるで花開いたかのようだった。
 ルイアナの唇が我知らずといった様子で笑みをこぼれさせて、目がうっとりと幼い子どものように純真に光り揺れているのを見て、カロンが心を動かされないわけがなかった。

 ルイアナは将来、父王の決めたどこかの王族に嫁ぐのだろう。
 しかし、だからといって、今恋をしてはいけないということがあるだろうか?こんな風に、無邪気に喜んで、まぶしいほど輝いているこの人の心を無視して…。

「…ルイアナさま…!」
 カロンはとうとう叫んで、ルイアナの手をとった。
「恋をされてしまったのですね!ああ、なんて素敵!」
 ルイアナはびくりと震えた。いつもの硬い表情の面影を見せて、カロンに向ける。
「……恋?」
「ええ!そうです!それ以外に何があります?」
「…まあ、違うわカロン。これは……」
「いいえ、ルイアナさま。きっとルイアナさまは、その素敵な、幸せ者の殿方に恋をしてしまったんです!ああ、ほんとに幸せな方ですね、その方は。それに、そこまで仰るなら本当に立派な方に違いないです!…ルイアナさま、もう一度、その時のことを聞かせてください」

 いつの間にか、ルイアナの喜びがカロンにまで伝染したようだった。
 その赤らんだ、少しうっとりしがちなルイアナの顔を見ているだけで、主人のどきどきした気持ちが伝わってくるのだ。
 カロンははしゃいで跳ねて、ルイアナの手を力強く握って、話の詳細をあれこれたずねていた。
「…どんな方ですか?年は?どこの言葉でお話されていました?ああ、私もお会いしたかった…!それに、出会い方が本当に素敵です…!まるで、歌に出てくる物語みたいですね」
「ちょっと…待ってちょうだい、カロン…。恋だなんて…。この私が」
 はたから見れば、今この時は、恋話で騒ぐ町の普通の少女となんら変わらない二人だった。
 気がつけば、ルイアナはさきほどより面を赤くして戸惑っていた。
「…第一……あの方は、一回きりの出会いだったのよ。そんな方に…恋だなんてして、どうしようというの?」
「まあ!そんなの関係ありませんよ、ルイアナさま。出会ってしまったが最後、好きになってしまうものなんです!それが恋ですよ」

 カロンだって恋なんてしたことがなかった。
 だが、いつも侍女部屋で大騒ぎしてみんなが誰それの恋の話をしている時の気持ちを、この時わが身をもって思い知った。
 恥ずかしがって目を伏せたルイアナは、本当にいつもと様子が違って見える。
 少し首を垂れて考えている時も、「まあ、でも…?」とつぶやいた声の様子も、うっとりしていて、なんだか可憐で弱々しく見えた。

「…でも、都の貴族でもないようだったし…きっと異国の方よ。ウラム語のなまりでそう感じたの…。服装からすると、北の都市ではないかしら。でも、すごく声がよく通る方で、はきはきされているのも、とても素敵だったの」
「ええ」
「それに、力があることを誇示している様子もなかったわ。助けたのに、恩着せがましい態度も、偉そうな顔も見せなくて…」
「まあ、なんて方でしょう…!」
「ああ、でもね、少し…不用意な外出をやんわりとがめられたけど…。『婦人方だけでこんなところまでお見えになるなんて、感心しませんね』って。私、それを聞いた時、とても恥ずかしくて、隠れてしまいたいほどだった。…この人に馬鹿な娘だと思われたのなら、もう絶望するしかないわって思ったのよ」
「まあ…」
 少し悲しそうに言うルイアナを見て、カロンは思わず肩を寄せた。
「おつらいですね」
「でもね…」
 ルイアナは顔を上げる。「でも、最後に送ってくださった後で、こう言ってくださったのよ。『ああいうことはもうおやめなさい。若いから冒険をしたくなる気持ちも分かりますが、身分の高い者が不用意に外に出てはいけません。でも、お身に大事がなくてよかった、くれぐれもご無事で』」
 ルイアナはちょっと言葉を切って、顔を赤らめた。
「…最後にね、『本当は、あまり来たいと思って来た都市ではなかったけど、あなたのような麗しい方に会えたからよかった』と…」
「まあ……!」
 カロンは感嘆の声を上げながら、もやもやした気持ちを胸の内に感じた。
 …ちょっと、それはずうずうしくないだろうか?
 主人をとられたように感じているのは分かっていたし、それがつまらない嫉妬なのは感じた瞬間からもう分かっていたが、カロンはその複雑な思いを消すこともできず、続きをうながした。

「…それで、その方とは…?」
「それきりよ。二月前だから、もう出立されてどこかへ行かれてしまったに違いないわ…。ああ…」
 ルイアナはうなだれて沈黙した。短い間だったが、彼女が失望しきっているのはひしひし伝わってきた。
「…せめて、お礼を言うためにでも、お捜しすればよかったわ…。あれきりの出会いなんて…。私、なんて馬鹿なのかしら…」
「まあ。そんなこと仰らず。今からでも人をやって、お捜しされてはいかがですか?きっと見つかりますよ」
「いいえ、きっと無理よ。意味ないわ。そんな希望をもって、結局見つからなかったらどうするの?がっかりするだけだわ…」

(まあ、なんてこと…。この方が…。ルイアナさまったら…)

 あれほど聡明な主人なのに、今はまるで子ども同然に見えた。
 カロンが落ち込んでいるルイアナをあれこれ言って慰めようとした時、

「――殿下、いきなりここからお呼びつけして申し訳ありません」
 室内につながる戸口で、扉を開けたマヌジーフがこちらに声をかけてきた。
 いつもよりさらに盛り上がっている主従の様子を見てか、彼はわざわざ遠くからそのまま呼びつけたのだ。しかし、言うほど申し訳なさそうでもなく、はっきり用件を告げた。
「ザンメルク殿のお客人が参られました。遠方の方なので、ぜひこの貴重な機会に殿下もお話にご参加いただけないかと、ザンメルク殿がお誘いですが」
「――わかりました。私も参ります」
 さすがにここでは平常の様子に戻って、ルイアナはすぐさま返事を返した。
 そのままカロンをともなって、マヌジーフが開けたままの扉を通って部屋へ戻った。


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「――すみません、殿下。お庭を散策されていたところをお邪魔いたしました。…友人が到着したもので。紹介します」
「構いませんわ」
 ルイアナはザンメルクが紹介しようと手を広げた先へ目をやり、そこに立っている二人の男に目をとめ、そして――
「あ……」
 声を失った。
 
 カロンはルイアナの顔を、そして向こうに立っていた男の様子を見てさとった。

「これは……」

 美麗な面に切れ長の灰色の瞳、そして栗色の髪をもつすらりとしたその青年は、人に好感をもたせる、穏やかだが上品な物腰をしていた。細身だが、堂々として見えるのはその長身と振る舞いのせいだろう。

「――驚いたな。…またお会いしましたね」
 青年は笑って言った。
 ルイアナは微笑みかけられたとたん、かすかに頬を紅潮させ、魅入られたようにその青年を見つめた。



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