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 ルイアナが少し横になると言うので、専用の係りの者が寝間を整え、休息に入った。 

 カロンは退室して廊下を歩いていた。
「――…カロン」
 呼ぶ声に振り向くと、静かな灰青色の瞳がこちらを見ていた。
「セヌーン。さっきは手伝ってくれてありがとう」
 カロンが着替えるのを手伝ったのはセヌーンだった。本格的に髪を結う時間が足りなかったので、髪飾りと髷(まげ)で頭をほとんど隠して、簡単に結わえたらどうかと提案してくれたのも彼女だった。
 セヌーンは何でもないと首を振って、
「今度、神殿の祭祀について行くのね?」と、静かにたずねた。
 どちらかというと身体能力の優れていた彼女は、護衛に重きを置いていた。そのため、日々戦いと気配を殺す訓練をしていた。そのせいか、彼女のもの静かな性格はますます深まっていた。
「ええ。そう聞いているわ」
「少しお元気がないよう」
 セヌーンが言っているのはルイアナのことだろう。
「…そうね…。ジョザンスキム殿下に、よく思われていないそうよ」
「何かされたの?」
「大したことじゃないわ。でも、直々にご忠告されたの。贅沢を控えるように」
 セヌーンはじっと前方を見つめた。それから言った。
「狩人小屋の近くで稽古してるわ。何かあったら呼んで」
「分かった」
 セヌーンはぱっと身を翻して行ってしまった。
(いつものことだけど、思い切りのいい娘だわ。……目に潔さがあるっていうのかしら)
 カロンは、時々セヌーンの方が似姿としてふさわしくないかと思っていた。あの芯のしっかりした彼女のまなざしは、ルイアナとよく似ている気がする。
「それに比べてわたしは……」
 ルイアナはカロンを気に入ってくれている。
 だから近侍の中でも、とりわけ側近くに控えて世話をすることを許してくれている。あの頼りない娘が何故、と侍女たちは様々にけなしてこきおろした。そう思われるのはカロンも不思議でないと思っていた。
 相変わらず優柔不断なぼうっとした性格は直らないし、刺繍や細々した仕事が苦手だ。そして、奴隷として暮らした時の記憶が強いのか、誰かから咎められることを常に強く恐れていた。
(でもいいわ、殿下のお側にいられる限り……)
 いくらののしられたってこわくない。カロンはそう思う時、自分の胸にすっとした強い気持ちが湧き上がってくるのを感じた。これが王女から賜った一番のおくりものだと彼女は思っていた。


 それからカロンは、侍従たちの居住空間となっている場所へ足を進めていた。しかし、回廊の先に人影を見つけて、ぴたりとその足を止めた。
「………」
 カロンは黙って辞儀をした。
 待っていた男が言った。
「変わらず、かの者の側でよく仕えよ。目を離すな」
「はい」
 カロンは男を見た。
 男はルイアナのおじオステアンの護衛で、腹心の部下だった。どういう役職で名前なのか、カロンは知らなかった。相手はそんなことも教えようとしなかった。ただ、こうして時々現れて、カロンやセヌーンたちに釘を刺していった。
「ルイアナが庭師や人夫に紛れて兵士を集めていないというのは、本当なのだな」
 カロンは静かな怒りを胸の内にしまって答えた。「…はい。全く根も葉もない噂でございます」
 何故彼らは近しい血族さえ疑うのだろうか?ただ無闇に音に反応して鎌首をもたげる蛇のように、よこしまで愚かな疑りだとカロンは軽蔑した。
「信じられぬ。火のないところに煙は立たぬぞ」
 カロンは堪えきれず、つい強い口調になった。「…それはオステアン様も同じお考えなのでしょうか?それとも、あなたの?」
 男が冷たい目を向けた。「何だと?」
 カロンが黙っているので、男は言った。「……口に気をつけろ。お前たちはただ王女の側に控えていればいい。不審なところあらば、ただちに我らに知らせよ。王女に寄る怪しい者もだ。よいな?」
 カロンは丁寧な辞儀をした。「はい、仰せのとおりに」
 男は去っていった。
 カロンはしばらく沈黙して回廊の先を見つめていた。
 召使いたちしか通らぬ空間だから、廊下には明かり取りの穴からわずかな光が漏れるだけだ。薄暗い廊下に立ちながら、カロンは自分の顔が険しくなっていくのを自覚していた。

(……何故疑うの…?何故、ルイアナ様の心を疑うの?…あなたたちがルイアナ様の寄る辺になるべきなんじゃないの…。温かみも情もないの?…自分たちの立場を守るのに必死で……そんなもの、あの気高いお方にはふさわしくないわ……)
 カロンは先ほど去っていったセヌーン、それから古参の侍女たち、それに館に集う気のいい放浪人たちも思い浮かべて、少し心を緩ませた。
「――あなたたちがそうしないなら、私たちがお守りするだけだわ……」
 彼女の強い決意に満ちた声は、ひっそりと誰にも聞かれずに宙空へ掻き消えた。


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